敵を知り己を知れば
「敵を知り己を知れば百戦してあやうからず」というのが孫氏の言葉なんですが、最近自分を知って少し楽になりました。
少し前にウルトラマンにハマったわけですが、旦那の「特撮にハマったのならどうして仮面ライダーに移行しないの?」といわれて、まだウルトラマンにハマったばかりだし…と思っていたけど、どうも私はウルトラマンの世界観が好きみたい。
だから、他に目が行かなかったんじゃないかと。
でも、昭和ウルトラマンだけでなく平成も見ないといけないのかな?と思い始めて、ちょっとだけ平成作品を見て、腑に落ちる。
私は平成作品に向かない、と。
誤解してほしくないのですが、平成特撮が駄目なわけではない。
昭和は特撮に限らずドラマはその場しのぎで作られたことが多いので、前後で設定が破綻することは少なくない。
平成作品は人間性を重視していると読み取れるので、大きな破綻はないように思うし、作品テーマも変わることがないように思う。
けれど、私は自分がウルトラマンに望むのが特撮パートであるのがわかったので、いかに脚本が優れていようと、エンターテインメントが一番大切なの!!
タロウの馬鹿みたいに踊ったりしても、大掛かりなセットだったり、殺陣が優れていたりすると、もうそれだけでいい。
だから、それがないと見ていて面白さを感じない。
ジードをドラマパートをすっ飛ばしながらも完走、メビウスは最終回三部作を見て、特撮パートが退屈すぎて私はもう平成作品に関わらなくていいんだと思った。
実はこう思えるまで若干葛藤があったのも事実で。
別に評論家になるわけではないから一から順に追わなくてもいいはずだけど、昭和ウルトラマンがいいと思うなら比べる対象として平成ウルトラマンも見なくては、と変な思い込みがあって。
でも、退屈な場面を見ていて自分とは相性が合わないとわかってスッキリしました。
恐らくジードはドラマパートを重視して作られた作品だから、肝心のそこを飛ばしてみていたら面白味は半減でしょうし。
けれど、私には特撮が一番なんだ。ここが面白くないと興味がわかない。
ジードの特撮パートが面白くないのは、完全に「玩具を売るためのシーン」に成り下がっているからなんだけど。
子供向け番組が玩具メーカーと組んで新しい玩具を発売することは当たり前だし、昔はロボットアニメだとスポンサーがつくからロボットがなくても話は通るけれどロボットアニメにした、なんて話はいくらでもあるのです。
ピンク映画も女の裸出してれば予算がでるので、自分の好きなように映画が作れたというのもあった(だからピンク映画出身の名監督は少なくない)。
だけど、私が見たジードについてはほぼ90年代ロボットアニメのそれで、ウルトラマンに乗車している少年の域から出ない。
アニメなら許せるまたはアニメならではの表現というはあるけれど、特撮にしてしまうと間延びする。
特にウルトラマンは一対一のプロレスみたいな動きが命なんだけど、玩具を出すシーンを入れてしまうため動きが途切れてしまう。
〇〇バージョンに変化するのも、ロボットに搭乗して必殺技をいうのも既に仮面ライダーや戦隊ヒーローがやっていて、何番煎じでこれといった特徴もないし、むしろウルトラマンの良さを殺してしまっていると感じるのです。
メビウスは最後まで絶望感が連続して、なんとかしかいとと思った矢先に希望の光が見えてくるのだけど、なぜみんなで合体するの?
タロウの時代からシックス・イン・ワンのように合体技があったけれど、それはウルトラマン同志のことで違和感はなかったが。
ここまでに伏線があったのかもしれないけれど、あったとしても人間とウルトラマンが合体する理由がわからない。
合体したことで強くなったのも腑に落ちない。
とどめのように特撮パートがつまらない。
確かに客演の回のメビウスは面白かったけれど、特撮パートが面白かったか?と問われれば昭和の方が圧倒的に面白かったと答えるだろう。
これは仕方ないのだけどCGを多用すると特撮の良さを相殺してしまうし、かといってもう昭和ウルトラマン並みのセットは予算上作れないし、表現の規制や消防法のこともあって昔の特撮はまずできない。
それまでタロウがギンガに出てくるし見るべきか悩んでいたけれど、それがわかっただけで、平成作品は見なくても私には大丈夫だとわかったのでした。
余談ですが。
ジードでベリアルがジードを息子呼びしているのですが、ケイがいうように「模造品」といった方がいいのでは?
ベリアルは国を興してそれが永遠に自分の血縁でつないでいくように願うような男ではないから(ほとんど寿命がないようなウルトラマンには血縁でつなぐという概念が薄いと思う)、ジードのことを自分の器くらいに思っても不思議でないし、その方が自然だと思うんだけどな。
ドラマパートをすっ飛ばしの私だから、単なる妄想の域なんだけど、もしかしてウルトラの父がタロウという息子を拵えたのが羨ましかったのか?
こういう妄想をしてしまうのが私が二次創作頭なんだと思ってしまう。
思い込みと続編と
言葉は呪だと実感したのは、昔から「あなたはウルトラマンタロウが好きだった」と母から繰り返し聞いていて、今更ながらウルトラマンにハマったとき、どうしてもタロウに目がいってしまうこと。
どうも私がタロウが好きだからか、息子もタロウ推しのようで、刷り込みというのは案外馬鹿にできないものだと思う。
そして、ウルトラマンについてずっと思っていたことが一部違うことに気がついた。
というのも、私はウルトラマンが自分が憑依する人間を選ぶのは「怪獣を前にしても屈しない闘志を持つもの」だと信じて疑わなかった。
昭和二期(初代ウルトラマン~レオ)まで全部カンストしていないのだが、しかし先の設定に当てはまるのはジャックとエースだけだった。ということは、2/5の割合。
タロウも大きい意味ではこちらの範囲だが、光太郎という人間体を選んだのはウルトラの母であり、憑依というよりも融合だと思うから厳密には違う。
セブンとレオはそれぞれ人間に擬態しているだけで宇宙人のまま。
マンに至っては護送中の怪獣を逃がしてしまい追いかけているところでハヤタと接触。彼を死なせてしまう業務上過失致死である。
これってハヤタにとっては青天の霹靂であり、宇宙警備隊はマンを馘にするような重要な案件だと思うのだが(笑)。
私はその勇敢さを買われて主人公はウルトラ警備隊のような組織に入ったのだとばかり思っていたけれど、よくよく考えればパン屋とか無職のボクサーが即座に入隊できるものでもないんだよね。
銃はともかく、戦闘機の運転なんて一朝一夕でできるわけないし。
なら、初代マンにおけるすでに科学特捜隊だったハヤタの設定は実に無駄も矛盾もない。
そうは思え度、毎回業務上過失致死を起こすわけにはいかないから、途中で変わったのだと思いますが。
初回もそうだが、最終回も自分の記憶と違っていた。
「正体がバレて光の国に帰っていく」と思い込んでいたけれど、タロウとレオは帰ってない。
マンはゼットンに敗北して死ぬ直前でゾフィーに救われ、たまたま「ちょうど私は命が二個ある」ということでハヤタを助け、自分も光の国に帰っていく。
ハヤタの記憶を消すという憎い演出までしてくれる。
初回といい、最終回といい、初代マンには本当に設定上無駄がないと思うし、レオまで見ていても、一番自然なラストだと思う。
数々の戦いで傷つき、とうとう光の国に帰るリミットを迎えたセブン。正体を明かして最後まで全力で地球を守って帰っていく。
ジャックとエースは上記の通りで、私はどうやらジャックとエースでウルトラマンの法則だと思っていたのかもしれない。子供にもわかりやすいしね。
タロウの最終回は賛否両論あるようだが、内容はともかく個人的にはマンネリ化を防ぐためのラストだったのではないかと考える。
ある意味ウルトラマンの力を否定することからマン以上の衝撃ではあるけれど、どこかにその力は眠っているみたいなファンタジックな感じで終わるから、絶望感とかそういうものはない。
レオは元々光の国の出身でもないし、帰りたい故郷は既になく、帰るに帰れないからあのラストだったのかな。
レオは憑依でも融合でもないから分離もできないし、消去法で決まったのかもしれない。
マンとセブンについてはシリーズ化として考えられてなかったので、それがかえって違いを浮き上がらせているようにも思うし、逆にジャック以降はシリーズを意識してのラストだったようにも思われる。
全力で地球を守り傷つき、やがて光の国へ帰るというテンプレが好きなひとには繰り返してほしいテーマかもしれないけれど、制作側のマンネリ化を防ぎたいという気持ちもすごくよくわかる。
シリーズを重ねるごとに大切なのは作品のテーマを外さないことと、マンネリ化を防ぐことだと思っている。
だから、セブンに息子がいたって驚かなかった。
というか、かつて主役だった男の息子が次代のヒーローなのが当たり前になったのはキン肉マンくらいからだろうか。
キン肉マンはシリーズではないので主役のキン肉マンの息子が主人公だが、ウルトラマンは各シリーズがある。
マンはシリーズのシンボルでもあるから立ち位置を変えないために除外。似ているジャックも省かれる。
メインである6兄弟に入らないレオも除外。
6兄弟に含まれるけれど看板番組のないゾフィーも除外。
残るはセブンとタロウだが、タロウはウルトラの父と母の実子という設定で、その彼に息子が出てきてしまうと、なんだか「ウルトラの孫」というイメージになってしまう。
消去法でセブンなのだが、無論知名度といい人気といい間違いなくウルトラシリーズを代表するキャラクターなので文句ない結論だったろう。
でも、なぜゼロが銀河伝説でセブンと初対面だったのか。
今では仲の良い親子となっているけれど、そもそもゼロの母親も含めて、未だに不明な点が多い。
個人的にはセブンが息子の存在を知っていなかったという設定の方が自然のように思う。
だけど、銀河伝説でセブンがどのような経緯でゼロを息子だと知ったか言及されていないので、謎のまま。
むしろジードの遺伝子操作で作られた子供という設定の方がしっくりくるように思うのだが。
どこかの機関がセブンの遺伝子を使ってクローンを研究→爆発かなにか緊急事態が発生し駆けつけてみるとほとんど死んでいたがカプセルに赤ん坊が→光の国にて保護し養護施設へ→ゼロは優れた運動能力を持っているので警備隊入隊を希望→入隊の際の試験や検査でセブンの息子と発覚→裏がないか確認中のところゼロが手っ取り早く強くなるために禁忌を犯す…という流れが自然に思える。
これならなぜセブンとゼロは一緒に暮らしてなかったのかの説明がつく。
だって、セブンがそのままゼロを孤児としておくのが不自然に思えてならないから。
余談。
二次創作でよくある「生意気だけどさみしがりや」的なキャラクターになっているゼロ。ありふれた性格に当てはめられたのかと思いきや、再度銀河伝説を見たら最後の方に行き来する人たちを見てはふてくされるようなしぐさをしてるんだよね。
ああ、ここからその造形が来ているんだとはじめて知った次第です。
行間を読む
漫画や小説などある程度ひとりで作っていくことが可能であれば、当初の設定をしっかり守りつつ発展させることが可能だが、アニメやゲームなどのコンテンツは基本的に複数の人間の手を経るので、漫画や小説よりもブレてしまう。
特にシリーズを重ねるごとに根底のテーマは不変であっても、そのシリーズ毎のテーマがあるはずで、これが違和感の原因となることも少なくない。
勿論、名作と呼ばれるものはシリーズを重ねても変わらないことよりも変わっていくことによって話が発展していくので、すべてがマイナスではないのだが。
人間だれしも経年変化するものだが、キャラクターとして捉えてしまうと、その許容範囲は狭くなる。
そういう齟齬はどこにでもあるはず。
アンジェリークはシリーズを重ねるごとにキャラクターが若干変化する。
これは他の乙女ゲームにはあまり見られない「ヒロイン(主人公)は変わっても攻略対象は変わらない」ために前後の比較ができ、変化をより感じることができるからだ。
天レクのアリオスとトロワのアリオスはイコールではない。
天レク時はアリオスの正体を隠す目的で、明のアリオス、暗のレヴィアスに殊更描き分けていたと思う。中の人も気をつけて演じていたと思うし。
トロワのアリオスはBGMがやや寂しげなものもあって、アリオスの中にレヴィアスが混じり込んだような感じ。
かつてあったアリオスの皮肉屋なのにどこか気さくな青年は、コレットの前のみ発揮されて、周囲にはふれないような陰のあるキャラとして造形されている。
トロワのアリオスが隠しキャラで、メインストーリーと絡まないから他キャラクターとの絡み合いをさせないという大人の事情なのだが、そこだけ見てしまうとかつてのアリオスではないと思う。
以前にも書いたが、ある二次創作では「以前のアリオスは”アリオス”というキャラクターを演じていたのだ」と自然にそこにふれていてとても納得した。
振り返ると確かにアリオスは無理に「気ままな剣士」を演じている節があるから。
このように描かれなかった部分の行間をどのように読むかによって印象はまったく異なる。
ただアリオスは変わってしまった。私の知るアリオスはいない、と結論づけるのもまたひとつの考え方だと思うし、受け入れるかどうかは自分の許容範囲によって違うだろう。
偉そうな言い方になっていたけれど、私は私でエトワのアリオスは受け入れ難いし(アリオスだけでなく特に聖獣組がちょっと…)。
ただ、難しいなと思うのは、統合性をもたせるということは、話を決める大前提であるのだが、これをガチガチに決めてしまうと行間を読むことができず、ツンデレなら〇〇、兄貴分なら〇〇、みたいな法則だけでしか動けなくなって、こちらが想像する余裕がなくなってしまう。
すると途端に面白みに欠けてしまう。
小説でも書きたいことの7~8割程度に抑えて、あとは読者に余韻を残すようにするというが、その余韻はあれこれ考える上でとても楽しい。
特に二次創作をするときは。
話は変わって、ウルトラマンレオを見ていると、特訓シーンについては「レオはセブン(隊長)を殺してもいい」とすら思うのだけど、どこかで見たコメントで「セブンだって本来こんな性格ではない。それくらい追い詰められているんだ」とあってこれまた納得。
(本来は別キャラが鬼隊長役だったけれど、紆余曲折あってセブンになったという大人の事情なので、セブンのキャラクターが変化している。)
レオは特別戦士ではなく、たまたま劣勢のセブンを助けて「地球を救え」と言われてしまった由来がある。
だから特訓して強くなって逞しく成長してもらわなければならない。
地球を守れるのはレオ、彼しかいないのだから。
と理解できても、杖で殴られ(割といつも)、ジープに追いかけまわされ(轢き殺されそうになった)、ブーメラン投げつけられ、鞭でしばかれ、ヘンテコな機械で痛めつけられ…って、やっぱりどんなに追い詰められてもセブンはレオには殺されも文句は言えまい(笑)。
余談。
今東京MXでウルトラマンレオが放送しているが、とうとう特訓のシーンがなくなってしまった。
ある方のレビューで「特訓シーン意味不明な感じでいらないと思っていたけど、なければないでつまらない」とあって、まさしくそれだと思いました。
シンボルを継承する
前回、前々回につづき、またしてもウルトラマンネタ。
特撮というと一般的に「ウルトラマン」「仮面ライダー」「戦隊ヒーロー」の三本だろう。
彼らは初代からのシンボルを引き継ぎ、それを失わないようにしている。
これには内面も外見も含める。
たとえば、内面ならウルトラマンは「正義とはなにか?」だと思う。決して自分(ウルトラマン)を絶対の正義とは描かない。
その考えはおそらく今でも続いていると思われる(平成ウルトラマンは知らないのですが、たぶんこの考えが初代から通して繰り返されるテーマだと思うので)。
そして、外見もまたウルトラマンから外れない。
何代も重ねてきたシリーズだけど、初代から今までウルトラマンの型を継承している。
多少違っていても外見からしてウルトラマンでない、というデザインはないはずだ。
この辺は戦隊ヒーローが有利。
彼らは初代ゴレンジャーの「5人色違い」をモチーフにするけれど、仮面とかはある程度自由。
もちろん、顔貌にある程度の規制はあれど、ウルトラマンや仮面ライダーほどの縛りはないはず。
けれど、ウルトラマンと仮面ライダーは初代をモチーフにすることが基本なので、たまに「これ仮面ライダーか?」みたいなのもチラチラいるらしいけれど、大原則は仮面ライダー1号の形だ。
なら、ウルトラマンと仮面ライダーならどちらが厳しいかと問われれば「ウルトラマン」と即答できる。
なぜなら、初代のデザインがシンプルだから。
シンプルゆえになにかアイテムを加算する方式というのもあるが、元々ウルトラマン自体が格闘技を主としているので、それもなかなか難しい(平成ウルトラマンは大人の事情でしているけれど、それでも逸脱しないように心掛けているはず)。
昭和はシルバー+レッドしかなくて、平成になってブルーを入れてきたけれど、そうでもしないとデザイン的に無理だったのだろう。
仮面ライダーは言わずと知れたバッタがモチーフなのだが、昭和の時点でストロンガーとかアマゾンとか「バッタ関係なくね?」みたいなデザインもあったけれど、特徴的な目がバッタだから、なんとなく類似しているように思える。
それに色はウルトラマンほど限定していないので、この辺で工夫できる。
実のところ、見慣れていない平成ウルトラマンについては、どれも同じに見えるんです。
昔からジャニーズの面々が同じに見えたのと一緒で、興味が薄いから同じに見えてしまう。
ウルトラマンとゾフィーとジャックは元から同じデザインだったから仕方ないとしても、セブン、エース、タロウ、レオあたりはデザインを変えてきたな、と感じられる。
ただ80あたりで原点回帰したせいか、デザインが同じように感じてしまう。
ひどい言い方になるけれど、80はモブに思えてしまう。というか、映画でモブとか雑魚とかに交じっても違和感ない。
平成作品は色を変えたりしているけれど、それが重なると既視感になって、ますます「どれ見ても一緒」的な感想しか出ない。
初代のイメージを崩さずに目新しさを出すというのが、いかに難しいか。
目新しいデザインだけならなんとかなったかもしれないけれど、それを一見して「ウルトラマン」と認識させなければならないのだから難しい。
翼をつけるとか、剣を装備とか、もうこの辺を加えると特撮に限らずあらゆる他作品で披露されているので、既視感しかない。
ちょっと話は逸れるけれど、聖闘士星矢の黄金聖闘士が主役の「黄金魂」というアニメーションが近年作られて、黄金聖衣がバージョンアップするのだけど、翼とかただ余計なものがついただけで、当初のデザインの方がずっとずっと優れている。
黄金聖闘士以降の聖衣は黄金聖衣の焼き回しだから、いかに黄金聖衣がデザイン的に完成されていたかを考えさせられた。
いろいろくっつければいいってもんじゃない。
ウルトラマンの問題は加えることの匙加減と、イメージ存続の難しさをよく表している。
過去を受け止める
前回のウルトラマンシリーズのつづき。
私は根っからの昭和ウルトラマン派なので平成ウルトラマンはまったくといっていいほど知らないのですが、メビウスには昭和ウルトラマンの客演があると知って、急ぎその部分だけ見るという邪道ぶり(笑)。
最初に一番好きなタロウを見て、タロウって意外と客演してないんだな~と思っていたら、どうやら本編後最初の客演だったようで。
悪くはなかったけれど、演じられていた篠田さん不在ということもあり、後で見た初代、セブン、ジャック、エース、レオ、80には劣るものでした。
設定の教官タロウと教え子メビウスにしてしまうと、後述する80とネタ被りになるからか、その辺の掘り下げもなかった。
というか、やはり本家本元が演じられているものには比べられない。
全体的に圧倒的な存在感が違ってくる。
その中で、エース・レオ・80の脚本は最高でした。
どれも過去を受け止めて今に残す…、という展開でした。
まずわかりやすく80から。
実は私、80放送時はかろうじて誕生していたのですが、まったく記憶にない。
昭和ウルトラマンは内容は覚えていなくても「見た」という記憶はあるのに、80だけない。
もっとはっきりいえば、80の存在も最近知ったくらいで、リアルタイムで見ていても不思議ではないものの(あまり再放送してなかったようなので覚えていない可能性は否定できない)、やはり見ていなかったと思われる。
それなのに、とっても感動した。泣いた!
そもそも80は地球では教師とUGM隊員の二足の草鞋という無茶振り設定なのだが、低迷する視聴率テコ入れのため教師は辞めてUGM隊員一本になる、というのが前提。
そんな80は怪獣を追って地球まで来ていてメビウスと共闘。色々あって、彼が教師であったときの学校が廃校となり、かつての教え子たちが同窓会を開くことになる。
80が地球へ来ていることを知った教え子が、メビウスに言伝を頼むが、80がメビウスにした答えはNO。
なぜなら、教師として半ば役職を放棄してしまった自分に教え子に合わせる顔はないから、と。
日は過ぎて同窓会当日。先生の返事もないまま、それでも先生に会えるかもと学校の屋上で同窓会をする。←ここは実は伏線。
教え子の想いが伝わったのか、なんとそこに怪獣の登場し、80も登場。
ご都合主義なんだけど、次の「俺たちのウルトラマンだ!」の台詞に涙腺崩壊!
この気持ちわかる。
おそらく80世代の人は私以上に涙なくては見られないのでは?
未見の私でさえ最も感動した台詞だった。
誰にでもある「自分のウルトラマン」に対する共感だよね。
戦いが終わると教え子たちが80に向かって「先生に憧れて教師になった」「私は3人のおかあさんです」と次々に自分の近況は報告。
80は空へ去った後、人間の長谷川さんに戻って「生徒に教えられた」とメビウスに告げ、彼は同窓会の中に入っていく。
その姿を映しながらENDと、べたな話ではあるものの、猛烈に感動しました。
次にエース。
ここはエース最終話の名台詞
「やさしさを失わないでくれ。
弱いものをいたわり、互いに助け合い、
どこの国の人たちとも友だちになろうとする気持ちを失わないでくれ。
たとえ、その気持ちが何百回裏切られようと。
それがわたしの最後の願いだ」
これがモチーフになっている。
メビウスたちが人間への愛と裏切りに揺れる中、エースは再度この言葉をいう。
最後のところが「それがわたしの変わらぬ願いだ」になっているのも、涙腺崩壊ポイント。
そして、とどめのように夕子が登場。
かつて北斗の半身であった夕子は生まれ故郷である月に戻り、それ以降北斗とは別れたまま。
最後にふたりが手を合わせてEND…なのだが、もう最後のこのシーンだけでも見た価値あり。
懐古厨といわれようと、このふたりの邂逅はそれだけで泣ける。
とはいえ、私はエースを見たことは記憶にあっても具体的なエピソードはそう覚えていなく、名言についても割と最近知ったのであった(笑)。
三番手はレオ。
これはレオの話をよく練り込んできた脚本だった。
レオは最初の怪獣との戦いに失敗して多くの犠牲を出している。それだけでなく、彼は故郷さえも失っているし、その後(本当は大人の事情だが)所属するMAC全滅、恋人も知人も死亡という最悪な事態を受け入れなくてはならない。
まさに孤独。
既に怪獣に負けていたメビウスを虚無僧のような男が話してくる。
それがレオだった。
顔を見た瞬間、もうメビウス負け。圧倒的に負け。
だって、レオこと真夏さんの凄みが鳥肌もので、まったく勝負にならない。
ここまで初代~タロウまで見ていたのですが、ウルトラマンに限らずヒーローものを演じられた俳優さんは子供たちの夢を壊さないようにしているという話を耳にするように、かなりかっこいい。
むろん青年時代の彼らのかっこよさはピークだと思うけれど、年を重ねてでるダンディズムがたまらない。
でも、真夏レオは少し違う。
畏怖というような凄みなんだ。
そして、レオと対決して負けたメビウスに対して話す台詞がかつて上司であったセブン(鬼)からの言葉なのが泣かせる。
過去の彼は凄みのある人間ではなかった。むしろ向こう見ずな単純な青年だった。けれど、鍛えられ苦難を乗り越えての凄み。
この存在感は真似できない。
素直なメビウスは今のままでは勝てないとレオを見習って修行するのだが。
これはレオの修業を知っていると生ぬるいとしかいえないのだけど、しかし、まあ尺の関係もあるので頑張ったということに。
最終的には敵を倒して冒頭で「俺はお前を認めない」といっていたレオに「お前たちに託す」となる。
失うものの多かった彼が、第二の故郷としている地球を託す意味。もうそれだけで感無量でした。
最後に、ウルトラの父を。
ウルトラの父は元から人間役はいないので、タロウのようになるのだろうと思っていたら、これが実によい脚本でした。
そして今回のメインキャラである父親と男の子の役者さんがとてもよかった。
特に子役の男の子はかわいいのに演技がすごく上手で、泣ける、泣ける。
冒頭、仕事で「ウルトラの父降臨祭」に行けないことを話す父親と「おとうさんはいっつも。この前だって、その前だって…」と悪態つく男の子。
この流れ、ウルトラマンに限らず昭和時代にはよくあったドラマだった。
なので、余計に期待しなかったのだけど。
話を元に戻すと、降臨祭に出向いたメビウスが見たのはふてくされる男の子。事情を聴くと先のことを語ってくれる。
そんな中、怪獣登場。
メビウスがGUYSだと知っている男の子は、捻挫しているのを隠しても彼に行って!と頼む。←ここで男の子が普段とても聞き分けの良い子だとわかる。
あとで父親も子供を探して来るのだが、このときも捻挫を隠している。
だから、冒頭の悪態は男の子がわがままな性格だったのではなく、本当に降臨祭を楽しみにしていたことを示している。
で、メビウスが怪獣に黄金されてされて大ピンチになると、父親に背負われた男の子は「おとうさんも来てくれたんだから、ウルトラの父も絶対に来てくれる!」という。
そのとき、お父さんは「おとうさん、子供の頃、本物のウルトラの父を見たんだよ」に子供は「何回も聞いたよ」と。←ここで男の子は父親から繰り返し聞いたことによりウルトラの父に親しみ、お父さんも喜ぶであろうと降臨祭に来たかったことがわかる。ダメだしだよ、これ。
その願いが通じたのか、ウルトラの父が降臨。圧倒的な力でメビウス復活、敵は倒される。
その最後におとうさんが「同じだ。子供の頃に見たのと」←ここで涙腺崩壊!!!
この台詞は誰でもない、昔子供だった人へのメッセージだろう。
かつての子供たちは大人になり、立場も考え方も変わった。けれど、ウルトラマンは変わらない。彼らはいつ見ても強く、そして優しい、と。
平成のウルトラマンを知らないので、比べようもないのですが、昭和ウルトラマンをよく知って書き上げた脚本だと思う。
ベタな話であれど、泣かせよう、感動させようとしているのではなく、もしこのときメビウスが〇〇に逢っていたら、というIF話を発展させている。ここが実にうまい。
昭和ウルトラマンにも他シリーズのウルトラマンが客演することが度々あったが、キャラを掘り下げるようなことはなかったと思う。
だからこそ、よく書けていると感心する。
ただ、これを見たからといって平成ウルトラマンに興味が出たかと訊かれたら、正直に告白するとNOだったりする。
やっぱりCGを多用すると安っぽく見えてしまうんだよね。
昭和だってジオラマだったし、これは当時の子供ですら偽物だとわかった。
今のテレビCG技術を見てきた平成の生まれは、私のような昭和ウルトラマンのセットと同じように、あれはテレビの中の現実と受け止めているのだろう。
ただひとつ問題なのは、圧倒的な予算のあるハリウッドCG技術を私たちは知っていて、どうしてもそれを知識として持っているから、テレビ予算になると途端に「安っぽい」と感じてしまう。
昭和ウルトラマンのセットは当時の技術でも最高峰だった。つまり比すものが最高レベルなので、偽物だとわかっても安っぽさも感じなかったんじゃないかな?
特撮におけるエロスと思い出と
大槻ケンヂのエッセイで「ウルトラマンセブンで性に目覚めた」というようなことが書いてあった。
どの本か失念してしまったのでセブンではないかもしれないが、つまりはウルトラマンを見て「エロい!」と思ったということ。
しかも、自分だけでなくて他にも仲間がいた、みたいなことも書いてあったと思う。
特撮には様々なシリーズがあるけれど、確かにウルトラマンシリーズが圧倒的にエロい。
恐らく怪獣と1対1で闘うため、ピンチのシーンが嬲られているように感じて、まるでSMプレイ(笑)。
それに付け加えて、磔にされたり、身体が濡れてぬめった描写も意外とあった。これがエロスに拍車をかけていると思う。
残念ながら、私はここに性癖を見つけられなかった質だが、ウルトラマンが苦しむシーンをエロいと思う人の気持ちは理解できる。
戦隊ものは基本5対1だからピンチに陥っても痛めつけられた感は薄いし、仮面ライダーはウルトラマンと同じく1対1でもやられても嬲られたまでいかないような気がする(仮面ライダーシリーズはほとんど知らないので違うかもしれないけれど、私が見たものについてはそう思った)。
「痛めつけられる」と「嬲られる」間はかなり距離感があって、嬲られてこそのエロスに昇華するんだと思う。
でも、実際特撮を見ているのはエロスではなくて(私の性癖は刺激してないので)、今から見ると主人公たちの顔面偏差値の高さに驚いて(笑)。
個人的にはウルトラマン>仮面ライダー>戦隊ものの順で偏差値が高い。
よく平成のイケメンライダーとかいうけれど、昭和もなかなかイケメン揃い。
私は物心つく前からウルトラマンタロウが好きだったようで、主演の篠田三郎を見ても「タロウの人」くらいにしか思わなかったのに、今見たらかなりのイケメンで驚いた!
仮面ライダーBLACKの倉田てつをは放送当時友達が好きで話題に合わせるので見ていたけれど、あの時よりも今の方が彼をずっとイケメンだと思っている。背も高いし、脚も長く、小顔。かっこいい。
それと、全体的な手作り感が大好き!!!
以前、ふとチェンネルを回した時に平成のウルトラマンが放送していて、戦いのシーンなのにまったく心に響かなかったのを今でも覚えている。
今そんなシーンを見ると、世界観としてはワイヤーアクション+CGの方がウルトラマンなどの特別な世界観は表現しやすいとは思う。
漫画的表現がしやすく、世界観にも合っているから。
けれど、やっぱりラジコンとしか思えない戦闘機とか、ジオラマのような街並み、背中のチャックがわかるウルトラマンが恋しい。
アクションもトランポリンを利用しての三回転ひねりとか、サンバルカンの太陽を背にして回転するポージングとか、ダイナマンの決めポーズ背景の爆発とか、ひとつひとつが丁寧で、彼らの象徴的な動作が好き。
シナリオについては子供の頃の記憶が残っているのがダイナマン。
サンバルカンも何故か前のシリーズの悪役であるヘイドリアン女王が復活したり(同じ戦隊ものとはいえ別物だと思っていたから驚いた!!)、ジェットマンも最後にレッドとピンクが結婚したくらいのその場の記憶はあるけれど、全体的な流れでいえばダイナマンしか覚えていない。
はっきりいってしまえば敵である「メギド王子の物語」であって、ダイナマンは主役であっても主軸はメギドを中心としてなっている。
甘ちゃんな坊ちゃんであったメギドがダイナマンと初対面で命と同等に大切にしている尻尾を切り落とされてしまうことから話がはじまる。
敵のジャシンカ帝国・有尾人一族は尻尾の数によりヒエラルキーがあり、父帝である9本のアトン、7本のカー将軍に次ぐ地位だったメギドは5本から4本に降格になり、これによって内部の地位も低下してしまう。
その後に出現する従妹のキメラ王女も4本なので、ライバル感もバリバリ出てくる。
中盤に出てくる女将軍7本尻尾のゼノギアによって内部バランスが更に変化。
ゼノギアは野心家でメギドを嵌めて失脚させ、その尻尾を切り落として幽閉させてしまう。
ゼノギアはその直後に現れたダークナイトとタックを組み、カー将軍まで失脚させるように企み、結果はカー将軍の殉死。
実はダークナイトの正体がメギド。彼は復讐のために幽閉されていた洞窟を脱出し、自分を嵌めたゼノギアに復讐し、父帝アトンと直接闘いその地位を譲りうける。
最終的にはダイナマンとの対決で負けてしまうのだが、彼はそれを受け入れただろう。
尻尾の数が絶対だった有尾人一族でも、辛苦を舐めてきた彼は「尻尾の数じゃない。実力なんだ!」と悟ったからだ。
面白いなと思ったのが、彼がキメラを妻に選んだこと。
互いにライバル視してはいたが、通常であれば彼らは結婚していただろう。メギドにはキメラ以上の、キメラにはメギド以上の人物がいたとは思えないから。
でも、色々あってメギドがキメラを選んだのは感慨深い。
そして、ダイナマンとの最終決戦で討死覚悟のメギドはキメラを逃がそうとするけれど、キメラ自身がそれを拒否して、ふたりとも死んでしまう。
ダイナマンは確かに正義のヒーローだけど、話の主軸はメギドが失脚して復活する過程だと思う。
メギドが失脚するまでは今までの戦隊ものとそう変わらない。戦って敵側がジリ貧となって最終決戦で悪が滅ぶ、みたいな。
でも、ダークナイトとして復活したメギドのかっこよさ。
以前なら新キャラはあくまで新キャラの投入であった。
だが、ダイナマンは違う。その正体をメギドにした。所詮はお坊ちゃんだった彼が一皮も二皮もむけて帰って来た。
今の戦隊ものの方が話が込み入ったものになっていると思うけれど、子供心に見たこの話が忘れられない。
普通のイケメンではなく、コミカルな描写も多かったので2.5枚目なんだけど、いかにも漢気があって「男が男に惚れる」タイプのキャラクターだった。
演じていた大葉健二が自分色に染めたという感じ(笑)。
余談だが、キルビルで千葉真一と一緒に出演していると知って手持ちのDVDで見たら、千葉真一の隣にいたコミカルなお弟子さん役だったのね。顔をよく見てなかったから気づかなかったけど、顔見て一発でわかったわ。
NOと唱える
思い立ってアンジェリークspecial2をプレイ中。
PS2本体がそろそろ稼働限界なのか、途中のアニメーションでストップしてしまったため、現在まだまだ序盤。
でも、やっていて楽しい。
トロワのデートメインとは違って、はっきりしたライバルの存在は大きい。
ちゃんとレイチェルに手抜きをお願いしていたはずなのに、怒涛の育成で何故かフィフティフィフティになって焦った(笑)。
ゲームとして一番SP2が好きという人の気持ちはわかる。
さて、十数年振りにプレイして思ったのは、自分が母親になってその視点でキャラクターを見てしまうことだった。
ゲームを見ていた子供が「どうしてゼフェルは怒っているの?」と訊いてきた。
確かに執務室に入るなり不機嫌な顔をして怒鳴られたら、普通はそう思うだろう。
キャラに慣れてしまった今では「ゼフェルはそういうキャラクター」として認識しているけれど、よくよく考えてみるとそこに至る過程は考えさせられるものがある。
ゼフェルはルトゥールで若干変節があったとはいえ、彼自身の人生は他守護聖の中で一番恵まれていない。
前任者の突然の失踪が原因で、本来あるべき猶予期間がなかった。
まだ未成年のゼフェルが、それも親にも友人にも愛されていた彼が、突然すべてを失ってしまう過去はあまりにもひどい。
だからこそ、ゼフェルは頑として「反聖地」であり守護聖制度のアンチテーゼを訴えている。
ランディとの確執(というか仲の悪さ)は、同じ世代でありながら聖地をすべて肯定的に受け入れている”甘い坊ちゃん”のランディに対する蟠りも大きいだろう。
(ゼフェルが思うほどランディは坊ちゃんでもなく、貴族の恩恵も受けていないのだが。けれど、そのランディの過去を知らないというのも、ここから彼らの間遠さを窺い知ることができる。)
ゼフェルが頑なに聖地に対してNOを唱えるほどに、いかに彼の過去が愛しいと思っいることの証左になるだろう。
そして、実際の女王と守護聖の制度を真正面からNOといったのは、実はアリオス。
ゼフェルもコレットが自分たちの手足として動くことになんら疑問は感じていない。
女王と守護聖の世界という絶対の存在については、疑ってはいない。
けれど、アリオスはトロワで「あいつらお前を扱き使いやがって」と唯一神鳥の制度を批判している。
他キャラクターは女王称賛する言葉以外疑問すらない。
これはアリオスがコレットを慮ってという以前に、女王制度ないしは皇帝制度という一極集中制度について疑問視しているからかもしれない。