アリコレ館

アンジェリークのアリオス×コレットばかりかと

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ウルトラマンネクサスが一番気になる特撮パートの出来がイマイチなのに嫌いになれないのは「光の継承」というテーマが自分に合っているからなんだな、と思った。

そう思い至るまでに結構不思議だったのだけど、考えてみたら納得。

おそらくはファイブスター物語の「血の継承」というテーマが私の根底に根付いているからなんだろうと思う。

 

ネクサスの光の継承も、デュナミストが身体をボロボロにして戦い、このまま朽ちてもいいとさえ思っていたとき、ふとしたきっかけで生きる希望を見出すと、ネクサスはそのひとを離れていくのもよかった。

また、セットにかかるコストをさげるため「メタフィールド」という設定を拵え、低予算を維持した。

ウルトラマンのセットは緻密で壊すことを前提としているから使いまわしができず、実にコスパの悪いものだった。

確かに特撮としてはどうかと思うようなセットだが、世界観としては実によくできている。

どの作品も様々な制約があって作られているのだけれど、あからさまに見えてしまうと受け手はしらけてしまうしまうが、こういうこの低予算を逆手に取った設定は素晴らしいと思う。

制約があるのはわかるが、売るための玩具が画面にドーン!と出ているよりずっといい。

 

ウルトラマンが泣いている」(円谷英明著)を読了。

さすがに円谷一族なだけあって細かく時系列で語られているな、というのが第一印象。

その次に感じたのは、子供向け作品で大人にも受けているものを高尚な作品として、あくまで子供向けな作品を二流と判じているということ。

ウルトラマンでもあくまでマン、セブンが至高で、あとは時流におもねることで二流化したと考えているように思う。

ウルトラマン一期は確かに脚本も大人向けが多かったと思うけれど、それを続けていてはなしてウルトラマンは永遠のナンバーワン(オンリーワン)だったかはわからない。

シリーズが続くにつれ絶対的にテコ入れは必要となるのだから、いいものを作れば絶対売れるみたいな根性論はどうなのかな、というのが私の感想です。

 

特に長く続くシリーズにはその作品毎のテーマは必要だと思う。

標榜するだけでなく、しっかり作品の根底に描かれるテーマ。

見ていて「なにをいいたいのかわからない」というものは意外と多い。

普遍的なテーマになればなるほどどこかで見た既視感、なんとなくわかったような終わり方、そんな流れになってしまう。

好き嫌いは個人差があるから、好きなシリーズ、嫌いなシリーズがあってもいいし、嫌いなものが続いたら(残念ではあるが)そこから卒業すればいいのだから。

自分には合わなかった、好みの問題なのだから、仕方ないことだろうし。

ただし、嫌いだからといってを罵るのは別。それはマナー違反。

また、全作品を本当に好きというひとは別だけど、「一般的に低評価なこの作品まで好きな俺は勝ち組」みたいな善意の押し付け的なものもどうかと思う。

繰り返しになるけれど、あくまで個人差、好みの問題なのだから。

 

万人受けするような作品でも、個人的には好みでないものもある。

ただ、やはり人気作というのは見ていると理由がはっきりわかる。

世界観がよく描けているとか、キャラクターが生きているとか、伏線をよく回収しているとか。

これはさすがだな、って感心する。

だから人気があるんだってマネするのではなく、それでも自分たちが描きたいテーマを決め、しっかり表現してほしいと思っている。

 

ところで、私がウルトラマンに求めているのが①特撮、特にミニチュアセットの緻密さ②キャラクターの造形③作品テーマであってドラマパートはそのずっと後になる。

だから、タロウが今でも一番なんだろうって思う。

特撮については新マンもエースもよくできてるし、合成については80もいいと聞く。

でも、キャラの造形で一番のタイプなのがタロウなの。

顔だけ見ると確かにセブンと似ているんだけど、アイスラッガーを外せるセブンとウルトラホーンを持つタロウは私の中で別物なんだよね、不思議と。

80も特撮いいよ、って聞くんだけどどうもお顔が好みでないので、食指が動かない。

好みの問題なんだな、とつくづく思う。

咀嚼力

名作と名高い、帰ってきたウルトラマンの「怪獣使いと少年」を視聴。

内容を知っていたのに、見終わった後の重苦しさは想像以上でした。

差別がテーマですが、それ自体が重いというよりも、見える差別がまかり通っていた時代のいじめの描写がリアルで、私にはこれが重かった。

また、少年役の子が演技が上手で、重苦しさに拍車をかけていて。

いつの時代でも孤児は生きにくいもので、ここではないどこかに行くために宇宙船を探していた少年は、結局最後まで宇宙船を探すところで終わる。

ウルトラマンが介在しても、少年の人生にとってなんの救いにもならない。

そういう結末がまたリアルで、見ている人の心を絞めつける。

とはいえ、脚本も演出も素晴らしいものでした。

シビアな作品だけに、私の場合は精神的に安定しているときでないと見られないのですが、いつかまた再度見たいとは思っています。

 

以前、ウルトラマンネクサスの内容はウルトラマンとして描かなくても、と書いたのですが、この「怪獣使いと少年」はウルトラマンに入れてこその内容だと思います。

ウルトラマンが登場しても少なくとも少年の境遇は変わらない。

差別などの社会問題をテーマにした社会派のドラマや映画はあるけれど、差別とか孤児の生きにくさとか、少年の寂しさを埋めてくれた宇宙人とかをうまく咀嚼してウルトラマンの世界に生かしている。

これは本当に素晴らしい。

ウルトラマンだからというよりも、このことをウルトラマンの世界観にするなら、というようなシナリオでした。

 

そういえば、ネクサスのウルトラマンXの客演回を見たのですが。

10勇士見た後で期待もまったくしなくて見たら、これまたよくネクサスの世界を咀嚼してXの世界に入れたと感心しました。

危機に陥ったときに諦めずにいると光が訪れる――ネクサスが現れるという登場はまさにネクサス!!という感じで。

これは完全なる人間態を持たないネクサスならではという感じもします。

副隊長がネクサスに変身しているのですが、副隊長の夫役が過去孤門を演じられていた役者さんで、ネクサスとアイコンタクトを交わす姿は「夫婦だから」とも「この世界で溺れることもなく、恋人を喪うこともなく生きてきたもうひとりの孤門にネクサスは反応した」ともとれる。

もちろん、命の危機を救ってくれたネクサスを見上げただけ、ともとれるし。

いいな、こういう自由な解釈のできる演出は。

 

平成客演に対して昭和客演はひどいという話を聞きますが、あれはああいう時代だったとしかいえません。

漫画でもアニメでも、前章のキャラクターが再登場する場合があって、よくて「俺たちがここを抑えているから、お前たちは早く行け!」というようなお助けキャラだったり、強さがインフレするための引き立て役、噛ませ犬的なものも少なくない。

それでも、好きなキャラクターの再登場はうれしいもので(長く続いたものしかできない演出でもあるから)、子供たちはそれでも喜んだと思う。

今見たらウルトラマンAで5兄弟が磔にされる回はもう少し力を合わせて、とか思うけれど、みんながいるだけでやっぱりうれしいと思ってしまう。

価値観の相違

鬱展開と名高きネクサスを飛ばして完走。

テンポが悪いというのがあって、話の筋だけ追いたい私には耐えられず、後半はかなりすっ飛ばし。

鬱だ鬱だと聞いていたので、かえって「あまり鬱展開じゃない」とすら思ってしまった(笑)。

デュナミストがビーストから身を挺して人々を守り、ネクサス自身が消耗していく様は感動的で。

しかも、死んでもいいとすら思っていたデュナミストが、生きる希望を見出したとき、ネクサスが次のデュナミストに移行するのもいい。

設定もまた一番理屈があっているようにも思う。

 

ただ、疑問があるとしたら、この話は別にウルトラマンでなくてもよかったのでは?ということだった。

 

価値観の違うメンバーが衝突しながらも徐々に打ち解けていく。

これはウルトラマンに限らず割とよくあるテーマで、ネクサスはその掘り下げが両親の死のトラウマや死の恐怖などの暗部を対象としているから暗いけれど、テーマ自体は普遍的なものだと思う。

だから、なにかに似ているというような既視感はないけれど、ウルトラマンとしては異色作だがどこかしらにはあるような話と感じてしまった。

個人的には「10勇士」を見た後だったので、なんでも出せばいいみたいなノリよりも話がまっていた方が絶対的におもしろいとは思ったけれど。

 

価値観の相違といえば、ネットで某ウルトラマンについて「平成のウルトラマンはそんなにしゃべらない。話す部分だけ見てるからそう思うだけ。タロウやレオの方がよっぽどしゃべっている」みたいなことが書いてあった。

前後の話がわからないから私の想像に他ならないが、多分「しゃべるのがうるさい」というのはそういうことじゃないんだと思う。

確かにタロウ、レオあたりは掛け声も演じられていた俳優が担当しているから、変身後も割とよくしゃべる。

ウルトラキーのときなんて、レオの「俺はアルトラを守る!」に対しウルトラ兄弟は「俺たちはアストラを殺す!」だったもんね(笑)。

でも、ウルトラマンたちが話しているのはそううるさく思わない。必要な会話だと思うから。

私がうるさく思うのは変身後、中の人が更にバージョンを変えるときの掛け声。

これは玩具を売るための戦略で挿入されてものだから仕方のないことなのだが、タイプチェンジをしない昭和特撮を見慣れていると、ものすごい違和感がある。

違和感だけでなく、肝心の特撮部分が途切れてしまって、特撮→掛け声→特撮というぶった切り。

90年代ロボットアニメも中から必殺技を叫んでいたが、これはアニメだから場面の切り替えになっても特撮→中の人アップの切り替えとは、また違う。

もちろん、特撮パートから切り替わるところはある。例えば、戦闘機で攻撃→パイロットのアップとか。

でも、する必要のない声かけのために、せっかく連続した場面をぶった切る必要はないのではないか。

タイプチェンジするとき、尺の関係で掛け声カットの場合があり、その方がよほど自然に思う。

前も書いたけれど、本人なのに人間体で掛け声を出すのは、ウルトラマンというロボットに搭乗しているような感じになってしまって、戦っている一体感を感じない。

ただ、この辺はタイプチェンジすることに見慣れた視聴者にはむしろそのまま戦っている方が山場を感じないから退屈なのかもしれないけれど。

 

余談。

10勇士、ビックリするほど面白くなかった。

ネクサスがどのように関わるのか気になってみたけれど、はっきりいってネクサスだけでなくほとんどが「ウルトラマン」という名前で繋がっていただけだった。

特撮パートだけでなく、どの場面も不思議なくらい面白味がなくて驚いた。

伏線とかどんでん返しとか期待していたわけではないが、平凡で盛り上がりに欠ける話だと思う。

自分と相性の悪い映画もあるけれど、それはあくまでも好みの問題で、10勇士の場合は安易に人気キャラ出せば許されると感じてしまったのが敗因だと思われる。

あと、メビウスの声にもちょっと驚き。

中の人が引退してしまったから声優の変更は仕方ないと思うし、そこにこだわりはないけれど、掛け声が以前のままで新しい声とまったく声質が違うから違和感が。

新しい声優はプロなだけあってうまいし、それだけなら特別なにも感じないけれど、掛け声との違いに最初は「敵役が話している???」と勘違いしたほど。

急遽声優の変更ならいざ知らず、選考する余地があったのなら、掛け声とのバランスは考えてほしかったな。

余韻を残して

たまたまネットサーフィンしていたら某作品の一話のレビューを目にして、私はその話を詳しくは知らなかったけれど、その人がどれほどこの作品が好きか、ということはよく理解できた。

普通ならつながらないような点と点をつないで(普通ならAパートとBパートのテイストが違いすぎるとしか言えないようなものだった)、結果私は〇〇が好きと結論づけていて、狂気すら感じる文章に大変好感を持ったのでした。

 

好きな作品はなんでもレビューを見るのが好きで、その人の考えに深く共感を覚えることもあるし、私は違うなと思うことはあれど、総じて好きなものを好きだと語る熱意には頭が下がる思いがする。

 

ただ、話の中においてすべての因果関係をはっきりさせようとする考えは、個人的には少し違うかな?とは思う。

個人がすべてを請け負っている漫画や小説ならともかく、分担制で制作するアニメ、ゲームなどは特にそう思う。

むろん、すべての伏線を回収できるならそれに越したことではないけれど、小さなことに拘り過ぎて大まかな流れを止めてしまうのは本末転倒だと思うし。

「あれはなんだったのかな?」と思うことがあっても、最終的に「納得した!面白かった!」くらいでいいのかな、と。

それと、読み替えができるように話の余韻を残してほしい。

ここは〇〇と読めるとも、△△としても読める。どちらも話が破綻しない、そんな余韻がほしい。

たとえば、聖闘士星矢で双子座のサガが善から悪に転じた理由が漫画において「(所謂)二重人格」で語られていても、描写では「某かが憑依している」ように見える。

または、理想を追い求めるだけでは地上は他の神に支配されてしまうとサガが危惧する場面もあるので、善であることに限界を感じて悪の力を得たようにも思える。

どれでも読めるし、破綻もしない。

ガチガチに因果関係を決めなくても、それくらいの曖昧さでいいと思う。

こういう妄想する余地はすごく大事だとも思っている。

 

他にもウルトラマンタロウの「血を吸う花は少女の精」ではどうして怪獣が出るのか因果関係ははっきりしないけれど、この回のゲストキャラである少女が捨て子だということ、里子になっても(金銭的に恵まれたとはいえ)家族の愛を得られなかったことなどの想いが怪獣を呼び出したように思える。

結末もすっきりしない。

結局、少女はまた施設に戻ることが言及されているが、孤児としての未来が開けるわけでもなく後味悪いものなのだが、私はすべてが勧善懲悪に終わるような話より好きだ。

なにより天涯孤独の光太郎はともかく、父にも母にも愛され、兄弟たちからもかわいがられてきたタロウが「少女は母を憎んでいた。そうさせた社会を憎んでいた」と締めくくるラストは細かいことを忘れてグッとくる。

 

それと、公式では二次創作でありがちなネタを入れるのはやめてほしいかな。

特に闇落ちとか。

闇落ちがストーリー上必要不可欠な要素であるなら仕方ないけれど、余程練り込んだシナリオでないととってつけたような、何番煎じの話になってしまう。

安易なお涙頂戴になると受け手としてはシラケるより他ない。

もしここで〇〇じゃなかったら、△△だったりしたら、というIFを重ねることで二次創作は闇落ちをえがく。

本来ではありえないもうひとつの未来であり、これをダメ押しのように公式でされてしまうと、妄想すらできなくなってしまう。

優れた文学というのは後世において二次創作させるものだ、と私は思うのだけど、元からこれでもか!これでもか!といいたいことをすべて出しつくしてしまうと読み手もそれ以上膨らむものがない。

書きたいことは7~8割程度に抑えて、残りを受け手に譲る。受け手がどのように取るかは自由。そんなスタンスであってほしい。

 

余談だけれど、ウルトラマンタロウにおいては光太郎とタロウの融合がこの作品の一番の謎。

昭和ウルトラマンは設定がザルで、人間関係の緻密さは平成ものに劣ると思う。

どのキャラまたは怪獣が強いかには興味のない私にはあまり考察する点がないのだけれど、光太郎とタロウの関係性には興味をひかれる。

正解はない。

本編を見ると光太郎の死=ウルトラマンタロウの誕生ととれるし、ウルトラの母をして光太郎とタロウは似ていると言及しているのだからソウルメイト(もしくは地球上でのタロウの半身は光太郎)というようなことかもしれない。

むろん、以前のように「勇敢な若者を死なせるには惜しい。ウルトラの力を同化させて死なないように手配」かもしれない。←ただこの場合は最終話で光太郎とタロウが分離するんだけど、マンとは違い特に命の用意もなしにできるからどうなのかな???

ここの因果関係をはっきりと示さなくても話は破綻しないし、キャラクターの行動原理もおかしくないから、どうとでも取れるような描写が好ましいのかもしれない。

敵を知り己を知れば

「敵を知り己を知れば百戦してあやうからず」というのが孫氏の言葉なんですが、最近自分を知って少し楽になりました。

少し前にウルトラマンにハマったわけですが、旦那の「特撮にハマったのならどうして仮面ライダーに移行しないの?」といわれて、まだウルトラマンにハマったばかりだし…と思っていたけど、どうも私はウルトラマンの世界観が好きみたい。

だから、他に目が行かなかったんじゃないかと。

でも、昭和ウルトラマンだけでなく平成も見ないといけないのかな?と思い始めて、ちょっとだけ平成作品を見て、腑に落ちる。

私は平成作品に向かない、と。

 

誤解してほしくないのですが、平成特撮が駄目なわけではない。

昭和は特撮に限らずドラマはその場しのぎで作られたことが多いので、前後で設定が破綻することは少なくない。

平成作品は人間性を重視していると読み取れるので、大きな破綻はないように思うし、作品テーマも変わることがないように思う。

けれど、私は自分がウルトラマンに望むのが特撮パートであるのがわかったので、いかに脚本が優れていようと、エンターテインメントが一番大切なの!!

タロウの馬鹿みたいに踊ったりしても、大掛かりなセットだったり、殺陣が優れていたりすると、もうそれだけでいい。

だから、それがないと見ていて面白さを感じない。

 

ジードをドラマパートをすっ飛ばしながらも完走、メビウスは最終回三部作を見て、特撮パートが退屈すぎて私はもう平成作品に関わらなくていいんだと思った。

実はこう思えるまで若干葛藤があったのも事実で。

別に評論家になるわけではないから一から順に追わなくてもいいはずだけど、昭和ウルトラマンがいいと思うなら比べる対象として平成ウルトラマンも見なくては、と変な思い込みがあって。

でも、退屈な場面を見ていて自分とは相性が合わないとわかってスッキリしました。

恐らくジードはドラマパートを重視して作られた作品だから、肝心のそこを飛ばしてみていたら面白味は半減でしょうし。

けれど、私には特撮が一番なんだ。ここが面白くないと興味がわかない。

 

ジードの特撮パートが面白くないのは、完全に「玩具を売るためのシーン」に成り下がっているからなんだけど。

子供向け番組が玩具メーカーと組んで新しい玩具を発売することは当たり前だし、昔はロボットアニメだとスポンサーがつくからロボットがなくても話は通るけれどロボットアニメにした、なんて話はいくらでもあるのです。

ピンク映画も女の裸出してれば予算がでるので、自分の好きなように映画が作れたというのもあった(だからピンク映画出身の名監督は少なくない)。

だけど、私が見たジードについてはほぼ90年代ロボットアニメのそれで、ウルトラマンに乗車している少年の域から出ない。

アニメなら許せるまたはアニメならではの表現というはあるけれど、特撮にしてしまうと間延びする。

特にウルトラマンは一対一のプロレスみたいな動きが命なんだけど、玩具を出すシーンを入れてしまうため動きが途切れてしまう。

〇〇バージョンに変化するのも、ロボットに搭乗して必殺技をいうのも既に仮面ライダーや戦隊ヒーローがやっていて、何番煎じでこれといった特徴もないし、むしろウルトラマンの良さを殺してしまっていると感じるのです。

 

メビウスは最後まで絶望感が連続して、なんとかしかいとと思った矢先に希望の光が見えてくるのだけど、なぜみんなで合体するの?

タロウの時代からシックス・イン・ワンのように合体技があったけれど、それはウルトラマン同志のことで違和感はなかったが。

ここまでに伏線があったのかもしれないけれど、あったとしても人間とウルトラマンが合体する理由がわからない。

合体したことで強くなったのも腑に落ちない。

とどめのように特撮パートがつまらない。

確かに客演の回のメビウスは面白かったけれど、特撮パートが面白かったか?と問われれば昭和の方が圧倒的に面白かったと答えるだろう。

 

これは仕方ないのだけどCGを多用すると特撮の良さを相殺してしまうし、かといってもう昭和ウルトラマン並みのセットは予算上作れないし、表現の規制や消防法のこともあって昔の特撮はまずできない。

それまでタロウがギンガに出てくるし見るべきか悩んでいたけれど、それがわかっただけで、平成作品は見なくても私には大丈夫だとわかったのでした。

 

 

余談ですが。

ジードでベリアルがジードを息子呼びしているのですが、ケイがいうように「模造品」といった方がいいのでは?

ベリアルは国を興してそれが永遠に自分の血縁でつないでいくように願うような男ではないから(ほとんど寿命がないようなウルトラマンには血縁でつなぐという概念が薄いと思う)、ジードのことを自分の器くらいに思っても不思議でないし、その方が自然だと思うんだけどな。

ドラマパートをすっ飛ばしの私だから、単なる妄想の域なんだけど、もしかしてウルトラの父がタロウという息子を拵えたのが羨ましかったのか?

こういう妄想をしてしまうのが私が二次創作頭なんだと思ってしまう。

思い込みと続編と

言葉は呪だと実感したのは、昔から「あなたはウルトラマンタロウが好きだった」と母から繰り返し聞いていて、今更ながらウルトラマンにハマったとき、どうしてもタロウに目がいってしまうこと。

どうも私がタロウが好きだからか、息子もタロウ推しのようで、刷り込みというのは案外馬鹿にできないものだと思う。

 

そして、ウルトラマンについてずっと思っていたことが一部違うことに気がついた。

というのも、私はウルトラマンが自分が憑依する人間を選ぶのは「怪獣を前にしても屈しない闘志を持つもの」だと信じて疑わなかった。

昭和二期(初代ウルトラマン~レオ)まで全部カンストしていないのだが、しかし先の設定に当てはまるのはジャックとエースだけだった。ということは、2/5の割合。

タロウも大きい意味ではこちらの範囲だが、光太郎という人間体を選んだのはウルトラの母であり、憑依というよりも融合だと思うから厳密には違う。

セブンとレオはそれぞれ人間に擬態しているだけで宇宙人のまま。

マンに至っては護送中の怪獣を逃がしてしまい追いかけているところでハヤタと接触。彼を死なせてしまう業務上過失致死である。

これってハヤタにとっては青天の霹靂であり、宇宙警備隊はマンを馘にするような重要な案件だと思うのだが(笑)。

 

私はその勇敢さを買われて主人公はウルトラ警備隊のような組織に入ったのだとばかり思っていたけれど、よくよく考えればパン屋とか無職のボクサーが即座に入隊できるものでもないんだよね。

銃はともかく、戦闘機の運転なんて一朝一夕でできるわけないし。

なら、初代マンにおけるすでに科学特捜隊だったハヤタの設定は実に無駄も矛盾もない。

そうは思え度、毎回業務上過失致死を起こすわけにはいかないから、途中で変わったのだと思いますが。

 

初回もそうだが、最終回も自分の記憶と違っていた。

「正体がバレて光の国に帰っていく」と思い込んでいたけれど、タロウとレオは帰ってない。

マンはゼットンに敗北して死ぬ直前でゾフィーに救われ、たまたま「ちょうど私は命が二個ある」ということでハヤタを助け、自分も光の国に帰っていく。

ハヤタの記憶を消すという憎い演出までしてくれる。

初回といい、最終回といい、初代マンには本当に設定上無駄がないと思うし、レオまで見ていても、一番自然なラストだと思う。

数々の戦いで傷つき、とうとう光の国に帰るリミットを迎えたセブン。正体を明かして最後まで全力で地球を守って帰っていく。

ジャックとエースは上記の通りで、私はどうやらジャックとエースでウルトラマンの法則だと思っていたのかもしれない。子供にもわかりやすいしね。

タロウの最終回は賛否両論あるようだが、内容はともかく個人的にはマンネリ化を防ぐためのラストだったのではないかと考える。

ある意味ウルトラマンの力を否定することからマン以上の衝撃ではあるけれど、どこかにその力は眠っているみたいなファンタジックな感じで終わるから、絶望感とかそういうものはない。

レオは元々光の国の出身でもないし、帰りたい故郷は既になく、帰るに帰れないからあのラストだったのかな。

レオは憑依でも融合でもないから分離もできないし、消去法で決まったのかもしれない。

マンとセブンについてはシリーズ化として考えられてなかったので、それがかえって違いを浮き上がらせているようにも思うし、逆にジャック以降はシリーズを意識してのラストだったようにも思われる。

全力で地球を守り傷つき、やがて光の国へ帰るというテンプレが好きなひとには繰り返してほしいテーマかもしれないけれど、制作側のマンネリ化を防ぎたいという気持ちもすごくよくわかる。

 

シリーズを重ねるごとに大切なのは作品のテーマを外さないことと、マンネリ化を防ぐことだと思っている。

だから、セブンに息子がいたって驚かなかった。

というか、かつて主役だった男の息子が次代のヒーローなのが当たり前になったのはキン肉マンくらいからだろうか。

キン肉マンはシリーズではないので主役のキン肉マンの息子が主人公だが、ウルトラマンは各シリーズがある。

マンはシリーズのシンボルでもあるから立ち位置を変えないために除外。似ているジャックも省かれる。

メインである6兄弟に入らないレオも除外。

6兄弟に含まれるけれど看板番組のないゾフィーも除外。

残るはセブンとタロウだが、タロウはウルトラの父と母の実子という設定で、その彼に息子が出てきてしまうと、なんだか「ウルトラの孫」というイメージになってしまう。

消去法でセブンなのだが、無論知名度といい人気といい間違いなくウルトラシリーズを代表するキャラクターなので文句ない結論だったろう。

 

でも、なぜゼロが銀河伝説でセブンと初対面だったのか。

今では仲の良い親子となっているけれど、そもそもゼロの母親も含めて、未だに不明な点が多い。

個人的にはセブンが息子の存在を知っていなかったという設定の方が自然のように思う。

だけど、銀河伝説でセブンがどのような経緯でゼロを息子だと知ったか言及されていないので、謎のまま。

むしろジードの遺伝子操作で作られた子供という設定の方がしっくりくるように思うのだが。

どこかの機関がセブンの遺伝子を使ってクローンを研究→爆発かなにか緊急事態が発生し駆けつけてみるとほとんど死んでいたがカプセルに赤ん坊が→光の国にて保護し養護施設へ→ゼロは優れた運動能力を持っているので警備隊入隊を希望→入隊の際の試験や検査でセブンの息子と発覚→裏がないか確認中のところゼロが手っ取り早く強くなるために禁忌を犯す…という流れが自然に思える。

これならなぜセブンとゼロは一緒に暮らしてなかったのかの説明がつく。

だって、セブンがそのままゼロを孤児としておくのが不自然に思えてならないから。

 

余談。

二次創作でよくある「生意気だけどさみしがりや」的なキャラクターになっているゼロ。ありふれた性格に当てはめられたのかと思いきや、再度銀河伝説を見たら最後の方に行き来する人たちを見てはふてくされるようなしぐさをしてるんだよね。

ああ、ここからその造形が来ているんだとはじめて知った次第です。

行間を読む

漫画や小説などある程度ひとりで作っていくことが可能であれば、当初の設定をしっかり守りつつ発展させることが可能だが、アニメやゲームなどのコンテンツは基本的に複数の人間の手を経るので、漫画や小説よりもブレてしまう。

特にシリーズを重ねるごとに根底のテーマは不変であっても、そのシリーズ毎のテーマがあるはずで、これが違和感の原因となることも少なくない。

勿論、名作と呼ばれるものはシリーズを重ねても変わらないことよりも変わっていくことによって話が発展していくので、すべてがマイナスではないのだが。

人間だれしも経年変化するものだが、キャラクターとして捉えてしまうと、その許容範囲は狭くなる。

そういう齟齬はどこにでもあるはず。

 

アンジェリークはシリーズを重ねるごとにキャラクターが若干変化する。

これは他の乙女ゲームにはあまり見られない「ヒロイン(主人公)は変わっても攻略対象は変わらない」ために前後の比較ができ、変化をより感じることができるからだ。

天レクのアリオスとトロワのアリオスはイコールではない。

天レク時はアリオスの正体を隠す目的で、明のアリオス、暗のレヴィアスに殊更描き分けていたと思う。中の人も気をつけて演じていたと思うし。

トロワのアリオスはBGMがやや寂しげなものもあって、アリオスの中にレヴィアスが混じり込んだような感じ。

かつてあったアリオスの皮肉屋なのにどこか気さくな青年は、コレットの前のみ発揮されて、周囲にはふれないような陰のあるキャラとして造形されている。

トロワのアリオスが隠しキャラで、メインストーリーと絡まないから他キャラクターとの絡み合いをさせないという大人の事情なのだが、そこだけ見てしまうとかつてのアリオスではないと思う。

以前にも書いたが、ある二次創作では「以前のアリオスは”アリオス”というキャラクターを演じていたのだ」と自然にそこにふれていてとても納得した。

振り返ると確かにアリオスは無理に「気ままな剣士」を演じている節があるから。

 

このように描かれなかった部分の行間をどのように読むかによって印象はまったく異なる。

ただアリオスは変わってしまった。私の知るアリオスはいない、と結論づけるのもまたひとつの考え方だと思うし、受け入れるかどうかは自分の許容範囲によって違うだろう。

偉そうな言い方になっていたけれど、私は私でエトワのアリオスは受け入れ難いし(アリオスだけでなく特に聖獣組がちょっと…)。

 

ただ、難しいなと思うのは、統合性をもたせるということは、話を決める大前提であるのだが、これをガチガチに決めてしまうと行間を読むことができず、ツンデレなら〇〇、兄貴分なら〇〇、みたいな法則だけでしか動けなくなって、こちらが想像する余裕がなくなってしまう。

すると途端に面白みに欠けてしまう。

小説でも書きたいことの7~8割程度に抑えて、あとは読者に余韻を残すようにするというが、その余韻はあれこれ考える上でとても楽しい。

特に二次創作をするときは。

 

話は変わって、ウルトラマンレオを見ていると、特訓シーンについては「レオはセブン(隊長)を殺してもいい」とすら思うのだけど、どこかで見たコメントで「セブンだって本来こんな性格ではない。それくらい追い詰められているんだ」とあってこれまた納得。

(本来は別キャラが鬼隊長役だったけれど、紆余曲折あってセブンになったという大人の事情なので、セブンのキャラクターが変化している。)

レオは特別戦士ではなく、たまたま劣勢のセブンを助けて「地球を救え」と言われてしまった由来がある。

だから特訓して強くなって逞しく成長してもらわなければならない。

地球を守れるのはレオ、彼しかいないのだから。

と理解できても、杖で殴られ(割といつも)、ジープに追いかけまわされ(轢き殺されそうになった)、ブーメラン投げつけられ、鞭でしばかれ、ヘンテコな機械で痛めつけられ…って、やっぱりどんなに追い詰められてもセブンはレオには殺されも文句は言えまい(笑)。

余談。

今東京MXでウルトラマンレオが放送しているが、とうとう特訓のシーンがなくなってしまった。

ある方のレビューで「特訓シーン意味不明な感じでいらないと思っていたけど、なければないでつまらない」とあって、まさしくそれだと思いました。