行間を読む
漫画や小説などある程度ひとりで作っていくことが可能であれば、当初の設定をしっかり守りつつ発展させることが可能だが、アニメやゲームなどのコンテンツは基本的に複数の人間の手を経るので、漫画や小説よりもブレてしまう。
特にシリーズを重ねるごとに根底のテーマは不変であっても、そのシリーズ毎のテーマがあるはずで、これが違和感の原因となることも少なくない。
勿論、名作と呼ばれるものはシリーズを重ねても変わらないことよりも変わっていくことによって話が発展していくので、すべてがマイナスではないのだが。
人間だれしも経年変化するものだが、キャラクターとして捉えてしまうと、その許容範囲は狭くなる。
そういう齟齬はどこにでもあるはず。
アンジェリークはシリーズを重ねるごとにキャラクターが若干変化する。
これは他の乙女ゲームにはあまり見られない「ヒロイン(主人公)は変わっても攻略対象は変わらない」ために前後の比較ができ、変化をより感じることができるからだ。
天レクのアリオスとトロワのアリオスはイコールではない。
天レク時はアリオスの正体を隠す目的で、明のアリオス、暗のレヴィアスに殊更描き分けていたと思う。中の人も気をつけて演じていたと思うし。
トロワのアリオスはBGMがやや寂しげなものもあって、アリオスの中にレヴィアスが混じり込んだような感じ。
かつてあったアリオスの皮肉屋なのにどこか気さくな青年は、コレットの前のみ発揮されて、周囲にはふれないような陰のあるキャラとして造形されている。
トロワのアリオスが隠しキャラで、メインストーリーと絡まないから他キャラクターとの絡み合いをさせないという大人の事情なのだが、そこだけ見てしまうとかつてのアリオスではないと思う。
以前にも書いたが、ある二次創作では「以前のアリオスは”アリオス”というキャラクターを演じていたのだ」と自然にそこにふれていてとても納得した。
振り返ると確かにアリオスは無理に「気ままな剣士」を演じている節があるから。
このように描かれなかった部分の行間をどのように読むかによって印象はまったく異なる。
ただアリオスは変わってしまった。私の知るアリオスはいない、と結論づけるのもまたひとつの考え方だと思うし、受け入れるかどうかは自分の許容範囲によって違うだろう。
偉そうな言い方になっていたけれど、私は私でエトワのアリオスは受け入れ難いし(アリオスだけでなく特に聖獣組がちょっと…)。
ただ、難しいなと思うのは、統合性をもたせるということは、話を決める大前提であるのだが、これをガチガチに決めてしまうと行間を読むことができず、ツンデレなら〇〇、兄貴分なら〇〇、みたいな法則だけでしか動けなくなって、こちらが想像する余裕がなくなってしまう。
すると途端に面白みに欠けてしまう。
小説でも書きたいことの7~8割程度に抑えて、あとは読者に余韻を残すようにするというが、その余韻はあれこれ考える上でとても楽しい。
特に二次創作をするときは。
話は変わって、ウルトラマンレオを見ていると、特訓シーンについては「レオはセブン(隊長)を殺してもいい」とすら思うのだけど、どこかで見たコメントで「セブンだって本来こんな性格ではない。それくらい追い詰められているんだ」とあってこれまた納得。
(本来は別キャラが鬼隊長役だったけれど、紆余曲折あってセブンになったという大人の事情なので、セブンのキャラクターが変化している。)
レオは特別戦士ではなく、たまたま劣勢のセブンを助けて「地球を救え」と言われてしまった由来がある。
だから特訓して強くなって逞しく成長してもらわなければならない。
地球を守れるのはレオ、彼しかいないのだから。
と理解できても、杖で殴られ(割といつも)、ジープに追いかけまわされ(轢き殺されそうになった)、ブーメラン投げつけられ、鞭でしばかれ、ヘンテコな機械で痛めつけられ…って、やっぱりどんなに追い詰められてもセブンはレオには殺されも文句は言えまい(笑)。
余談。
今東京MXでウルトラマンレオが放送しているが、とうとう特訓のシーンがなくなってしまった。
ある方のレビューで「特訓シーン意味不明な感じでいらないと思っていたけど、なければないでつまらない」とあって、まさしくそれだと思いました。