アリコレ館

アンジェリークのアリオス×コレットばかりかと

過去を受け止める

前回のウルトラマンシリーズのつづき。

 

私は根っからの昭和ウルトラマン派なので平成ウルトラマンはまったくといっていいほど知らないのですが、メビウスには昭和ウルトラマンの客演があると知って、急ぎその部分だけ見るという邪道ぶり(笑)。

最初に一番好きなタロウを見て、タロウって意外と客演してないんだな~と思っていたら、どうやら本編後最初の客演だったようで。

悪くはなかったけれど、演じられていた篠田さん不在ということもあり、後で見た初代、セブン、ジャック、エース、レオ、80には劣るものでした。

設定の教官タロウと教え子メビウスにしてしまうと、後述する80とネタ被りになるからか、その辺の掘り下げもなかった。

というか、やはり本家本元が演じられているものには比べられない。

全体的に圧倒的な存在感が違ってくる。

 

その中で、エース・レオ・80の脚本は最高でした。

どれも過去を受け止めて今に残す…、という展開でした。

 

まずわかりやすく80から。

実は私、80放送時はかろうじて誕生していたのですが、まったく記憶にない。

昭和ウルトラマンは内容は覚えていなくても「見た」という記憶はあるのに、80だけない。

もっとはっきりいえば、80の存在も最近知ったくらいで、リアルタイムで見ていても不思議ではないものの(あまり再放送してなかったようなので覚えていない可能性は否定できない)、やはり見ていなかったと思われる。

それなのに、とっても感動した。泣いた!

そもそも80は地球では教師とUGM隊員の二足の草鞋という無茶振り設定なのだが、低迷する視聴率テコ入れのため教師は辞めてUGM隊員一本になる、というのが前提。

そんな80は怪獣を追って地球まで来ていてメビウスと共闘。色々あって、彼が教師であったときの学校が廃校となり、かつての教え子たちが同窓会を開くことになる。

80が地球へ来ていることを知った教え子が、メビウスに言伝を頼むが、80がメビウスにした答えはNO。

なぜなら、教師として半ば役職を放棄してしまった自分に教え子に合わせる顔はないから、と。

日は過ぎて同窓会当日。先生の返事もないまま、それでも先生に会えるかもと学校の屋上で同窓会をする。←ここは実は伏線。

教え子の想いが伝わったのか、なんとそこに怪獣の登場し、80も登場。

ご都合主義なんだけど、次の「俺たちのウルトラマンだ!」の台詞に涙腺崩壊!

この気持ちわかる。

おそらく80世代の人は私以上に涙なくては見られないのでは?

未見の私でさえ最も感動した台詞だった。

誰にでもある「自分のウルトラマン」に対する共感だよね。

戦いが終わると教え子たちが80に向かって「先生に憧れて教師になった」「私は3人のおかあさんです」と次々に自分の近況は報告。

80は空へ去った後、人間の長谷川さんに戻って「生徒に教えられた」とメビウスに告げ、彼は同窓会の中に入っていく。

その姿を映しながらENDと、べたな話ではあるものの、猛烈に感動しました。

 

次にエース。

ここはエース最終話の名台詞

 

「やさしさを失わないでくれ。
弱いものをいたわり、互いに助け合い、
どこの国の人たちとも友だちになろうとする気持ちを失わないでくれ。
たとえ、その気持ちが何百回裏切られようと。

それがわたしの最後の願いだ」

 

これがモチーフになっている。

メビウスたちが人間への愛と裏切りに揺れる中、エースは再度この言葉をいう。

最後のところが「それがわたしの変わらぬ願いだ」になっているのも、涙腺崩壊ポイント。

そして、とどめのように夕子が登場。

かつて北斗の半身であった夕子は生まれ故郷である月に戻り、それ以降北斗とは別れたまま。

最後にふたりが手を合わせてEND…なのだが、もう最後のこのシーンだけでも見た価値あり。

懐古厨といわれようと、このふたりの邂逅はそれだけで泣ける。

とはいえ、私はエースを見たことは記憶にあっても具体的なエピソードはそう覚えていなく、名言についても割と最近知ったのであった(笑)。

 

三番手はレオ。

これはレオの話をよく練り込んできた脚本だった。

レオは最初の怪獣との戦いに失敗して多くの犠牲を出している。それだけでなく、彼は故郷さえも失っているし、その後(本当は大人の事情だが)所属するMAC全滅、恋人も知人も死亡という最悪な事態を受け入れなくてはならない。

まさに孤独。

既に怪獣に負けていたメビウスを虚無僧のような男が話してくる。

それがレオだった。

顔を見た瞬間、もうメビウス負け。圧倒的に負け。

だって、レオこと真夏さんの凄みが鳥肌もので、まったく勝負にならない。

ここまで初代~タロウまで見ていたのですが、ウルトラマンに限らずヒーローものを演じられた俳優さんは子供たちの夢を壊さないようにしているという話を耳にするように、かなりかっこいい。

むろん青年時代の彼らのかっこよさはピークだと思うけれど、年を重ねてでるダンディズムがたまらない。

でも、真夏レオは少し違う。

畏怖というような凄みなんだ。

そして、レオと対決して負けたメビウスに対して話す台詞がかつて上司であったセブン(鬼)からの言葉なのが泣かせる。

過去の彼は凄みのある人間ではなかった。むしろ向こう見ずな単純な青年だった。けれど、鍛えられ苦難を乗り越えての凄み。

この存在感は真似できない。

素直なメビウスは今のままでは勝てないとレオを見習って修行するのだが。

これはレオの修業を知っていると生ぬるいとしかいえないのだけど、しかし、まあ尺の関係もあるので頑張ったということに。

最終的には敵を倒して冒頭で「俺はお前を認めない」といっていたレオに「お前たちに託す」となる。

失うものの多かった彼が、第二の故郷としている地球を託す意味。もうそれだけで感無量でした。

 

最後に、ウルトラの父を。

ウルトラの父は元から人間役はいないので、タロウのようになるのだろうと思っていたら、これが実によい脚本でした。

そして今回のメインキャラである父親と男の子の役者さんがとてもよかった。

特に子役の男の子はかわいいのに演技がすごく上手で、泣ける、泣ける。

冒頭、仕事で「ウルトラの父降臨祭」に行けないことを話す父親と「おとうさんはいっつも。この前だって、その前だって…」と悪態つく男の子。

この流れ、ウルトラマンに限らず昭和時代にはよくあったドラマだった。

なので、余計に期待しなかったのだけど。

話を元に戻すと、降臨祭に出向いたメビウスが見たのはふてくされる男の子。事情を聴くと先のことを語ってくれる。

そんな中、怪獣登場。

メビウスがGUYSだと知っている男の子は、捻挫しているのを隠しても彼に行って!と頼む。←ここで男の子が普段とても聞き分けの良い子だとわかる。

あとで父親も子供を探して来るのだが、このときも捻挫を隠している。

だから、冒頭の悪態は男の子がわがままな性格だったのではなく、本当に降臨祭を楽しみにしていたことを示している。

で、メビウスが怪獣に黄金されてされて大ピンチになると、父親に背負われた男の子は「おとうさんも来てくれたんだから、ウルトラの父も絶対に来てくれる!」という。

そのとき、お父さんは「おとうさん、子供の頃、本物のウルトラの父を見たんだよ」に子供は「何回も聞いたよ」と。←ここで男の子は父親から繰り返し聞いたことによりウルトラの父に親しみ、お父さんも喜ぶであろうと降臨祭に来たかったことがわかる。ダメだしだよ、これ。

その願いが通じたのか、ウルトラの父が降臨。圧倒的な力でメビウス復活、敵は倒される。

その最後におとうさんが「同じだ。子供の頃に見たのと」←ここで涙腺崩壊!!!

この台詞は誰でもない、昔子供だった人へのメッセージだろう。

かつての子供たちは大人になり、立場も考え方も変わった。けれど、ウルトラマンは変わらない。彼らはいつ見ても強く、そして優しい、と。

 

平成のウルトラマンを知らないので、比べようもないのですが、昭和ウルトラマンをよく知って書き上げた脚本だと思う。

ベタな話であれど、泣かせよう、感動させようとしているのではなく、もしこのときメビウスが〇〇に逢っていたら、というIF話を発展させている。ここが実にうまい。

昭和ウルトラマンにも他シリーズのウルトラマンが客演することが度々あったが、キャラを掘り下げるようなことはなかったと思う。

だからこそ、よく書けていると感心する。

 

ただ、これを見たからといって平成ウルトラマンに興味が出たかと訊かれたら、正直に告白するとNOだったりする。

やっぱりCGを多用すると安っぽく見えてしまうんだよね。

昭和だってジオラマだったし、これは当時の子供ですら偽物だとわかった。

今のテレビCG技術を見てきた平成の生まれは、私のような昭和ウルトラマンのセットと同じように、あれはテレビの中の現実と受け止めているのだろう。

ただひとつ問題なのは、圧倒的な予算のあるハリウッドCG技術を私たちは知っていて、どうしてもそれを知識として持っているから、テレビ予算になると途端に「安っぽい」と感じてしまう。

昭和ウルトラマンのセットは当時の技術でも最高峰だった。つまり比すものが最高レベルなので、偽物だとわかっても安っぽさも感じなかったんじゃないかな?

特撮におけるエロスと思い出と

大槻ケンヂのエッセイで「ウルトラマンセブンで性に目覚めた」というようなことが書いてあった。

どの本か失念してしまったのでセブンではないかもしれないが、つまりはウルトラマンを見て「エロい!」と思ったということ。

しかも、自分だけでなくて他にも仲間がいた、みたいなことも書いてあったと思う。

 

特撮には様々なシリーズがあるけれど、確かにウルトラマンシリーズが圧倒的にエロい。

恐らく怪獣と1対1で闘うため、ピンチのシーンが嬲られているように感じて、まるでSMプレイ(笑)。

それに付け加えて、磔にされたり、身体が濡れてぬめった描写も意外とあった。これがエロスに拍車をかけていると思う。

残念ながら、私はここに性癖を見つけられなかった質だが、ウルトラマンが苦しむシーンをエロいと思う人の気持ちは理解できる。

 

戦隊ものは基本5対1だからピンチに陥っても痛めつけられた感は薄いし、仮面ライダーウルトラマンと同じく1対1でもやられても嬲られたまでいかないような気がする(仮面ライダーシリーズはほとんど知らないので違うかもしれないけれど、私が見たものについてはそう思った)。

「痛めつけられる」と「嬲られる」間はかなり距離感があって、嬲られてこそのエロスに昇華するんだと思う。

 

でも、実際特撮を見ているのはエロスではなくて(私の性癖は刺激してないので)、今から見ると主人公たちの顔面偏差値の高さに驚いて(笑)。

個人的にはウルトラマン仮面ライダー>戦隊ものの順で偏差値が高い。

よく平成のイケメンライダーとかいうけれど、昭和もなかなかイケメン揃い。

私は物心つく前からウルトラマンタロウが好きだったようで、主演の篠田三郎を見ても「タロウの人」くらいにしか思わなかったのに、今見たらかなりのイケメンで驚いた!

仮面ライダーBLACKの倉田てつをは放送当時友達が好きで話題に合わせるので見ていたけれど、あの時よりも今の方が彼をずっとイケメンだと思っている。背も高いし、脚も長く、小顔。かっこいい。

 

それと、全体的な手作り感が大好き!!!

以前、ふとチェンネルを回した時に平成のウルトラマンが放送していて、戦いのシーンなのにまったく心に響かなかったのを今でも覚えている。

今そんなシーンを見ると、世界観としてはワイヤーアクション+CGの方がウルトラマンなどの特別な世界観は表現しやすいとは思う。

漫画的表現がしやすく、世界観にも合っているから。

けれど、やっぱりラジコンとしか思えない戦闘機とか、ジオラマのような街並み、背中のチャックがわかるウルトラマンが恋しい。

アクションもトランポリンを利用しての三回転ひねりとか、サンバルカンの太陽を背にして回転するポージングとか、ダイナマンの決めポーズ背景の爆発とか、ひとつひとつが丁寧で、彼らの象徴的な動作が好き。

 

シナリオについては子供の頃の記憶が残っているのがダイナマン

サンバルカンも何故か前のシリーズの悪役であるヘイドリアン女王が復活したり(同じ戦隊ものとはいえ別物だと思っていたから驚いた!!)、ジェットマンも最後にレッドとピンクが結婚したくらいのその場の記憶はあるけれど、全体的な流れでいえばダイナマンしか覚えていない。

はっきりいってしまえば敵である「メギド王子の物語」であって、ダイナマンは主役であっても主軸はメギドを中心としてなっている。

甘ちゃんな坊ちゃんであったメギドがダイナマンと初対面で命と同等に大切にしている尻尾を切り落とされてしまうことから話がはじまる。

敵のジャシンカ帝国・有尾人一族は尻尾の数によりヒエラルキーがあり、父帝である9本のアトン、7本のカー将軍に次ぐ地位だったメギドは5本から4本に降格になり、これによって内部の地位も低下してしまう。

その後に出現する従妹のキメラ王女も4本なので、ライバル感もバリバリ出てくる。

中盤に出てくる女将軍7本尻尾のゼノギアによって内部バランスが更に変化。

ゼノギアは野心家でメギドを嵌めて失脚させ、その尻尾を切り落として幽閉させてしまう。

ゼノギアはその直後に現れたダークナイトとタックを組み、カー将軍まで失脚させるように企み、結果はカー将軍の殉死。

実はダークナイトの正体がメギド。彼は復讐のために幽閉されていた洞窟を脱出し、自分を嵌めたゼノギアに復讐し、父帝アトンと直接闘いその地位を譲りうける。

最終的にはダイナマンとの対決で負けてしまうのだが、彼はそれを受け入れただろう。

尻尾の数が絶対だった有尾人一族でも、辛苦を舐めてきた彼は「尻尾の数じゃない。実力なんだ!」と悟ったからだ。

面白いなと思ったのが、彼がキメラを妻に選んだこと。

互いにライバル視してはいたが、通常であれば彼らは結婚していただろう。メギドにはキメラ以上の、キメラにはメギド以上の人物がいたとは思えないから。

でも、色々あってメギドがキメラを選んだのは感慨深い。

そして、ダイナマンとの最終決戦で討死覚悟のメギドはキメラを逃がそうとするけれど、キメラ自身がそれを拒否して、ふたりとも死んでしまう。

ダイナマンは確かに正義のヒーローだけど、話の主軸はメギドが失脚して復活する過程だと思う。

メギドが失脚するまでは今までの戦隊ものとそう変わらない。戦って敵側がジリ貧となって最終決戦で悪が滅ぶ、みたいな。

でも、ダークナイトとして復活したメギドのかっこよさ。

以前なら新キャラはあくまで新キャラの投入であった。

だが、ダイナマンは違う。その正体をメギドにした。所詮はお坊ちゃんだった彼が一皮も二皮もむけて帰って来た。

今の戦隊ものの方が話が込み入ったものになっていると思うけれど、子供心に見たこの話が忘れられない。

 

キャラクターでいえば、宇宙刑事ギャバンがかっこよかった。

普通のイケメンではなく、コミカルな描写も多かったので2.5枚目なんだけど、いかにも漢気があって「男が男に惚れる」タイプのキャラクターだった。

演じていた大葉健二が自分色に染めたという感じ(笑)。

余談だが、キルビル千葉真一と一緒に出演していると知って手持ちのDVDで見たら、千葉真一の隣にいたコミカルなお弟子さん役だったのね。顔をよく見てなかったから気づかなかったけど、顔見て一発でわかったわ。

NOと唱える

思い立ってアンジェリークspecial2をプレイ中。

PS2本体がそろそろ稼働限界なのか、途中のアニメーションでストップしてしまったため、現在まだまだ序盤。

でも、やっていて楽しい。

トロワのデートメインとは違って、はっきりしたライバルの存在は大きい。

ちゃんとレイチェルに手抜きをお願いしていたはずなのに、怒涛の育成で何故かフィフティフィフティになって焦った(笑)。

ゲームとして一番SP2が好きという人の気持ちはわかる。

 

さて、十数年振りにプレイして思ったのは、自分が母親になってその視点でキャラクターを見てしまうことだった。

ゲームを見ていた子供が「どうしてゼフェルは怒っているの?」と訊いてきた。

確かに執務室に入るなり不機嫌な顔をして怒鳴られたら、普通はそう思うだろう。

キャラに慣れてしまった今では「ゼフェルはそういうキャラクター」として認識しているけれど、よくよく考えてみるとそこに至る過程は考えさせられるものがある。

ゼフェルはルトゥールで若干変節があったとはいえ、彼自身の人生は他守護聖の中で一番恵まれていない。

前任者の突然の失踪が原因で、本来あるべき猶予期間がなかった。

まだ未成年のゼフェルが、それも親にも友人にも愛されていた彼が、突然すべてを失ってしまう過去はあまりにもひどい。

だからこそ、ゼフェルは頑として「反聖地」であり守護聖制度のアンチテーゼを訴えている。

ランディとの確執(というか仲の悪さ)は、同じ世代でありながら聖地をすべて肯定的に受け入れている”甘い坊ちゃん”のランディに対する蟠りも大きいだろう。

(ゼフェルが思うほどランディは坊ちゃんでもなく、貴族の恩恵も受けていないのだが。けれど、そのランディの過去を知らないというのも、ここから彼らの間遠さを窺い知ることができる。)

ゼフェルが頑なに聖地に対してNOを唱えるほどに、いかに彼の過去が愛しいと思っいることの証左になるだろう。

 

そして、実際の女王と守護聖の制度を真正面からNOといったのは、実はアリオス。

ゼフェルもコレットが自分たちの手足として動くことになんら疑問は感じていない。

女王と守護聖の世界という絶対の存在については、疑ってはいない。

けれど、アリオスはトロワで「あいつらお前を扱き使いやがって」と唯一神鳥の制度を批判している。

他キャラクターは女王称賛する言葉以外疑問すらない。

これはアリオスがコレットを慮ってという以前に、女王制度ないしは皇帝制度という一極集中制度について疑問視しているからかもしれない。

教官協力者との恋

ある方が「天レクはとても感動したけれど、やはり教官(協力者)×コレットのCPは自分の中でSP2で終わっていた」と書いてあって、それがトロワ前の発言だったんだけど、個人的には納得。

すべてはエトワまでつながっていて、彼らとコレットの絆が切れることはないから、決してどのタイミングで切れてしまうというものではないけれど、SP2以上のものってないように思う。

まだお互いの気持ちが固まらずに、男は女王という名誉に遠慮して、コレットは恋にあと一歩踏み出せずにいて。

それで迎えた女王ED。

それから天レクで、トロワで、エトワで…って、特にエトワで結ばれるとなると、何回も別離して、また確実に別れるのがわかっているのに結ばれるの?ってことになる。

天レクは絶対別離EDだからここは覆せないし、せいぜいトロワで結ばれないと「そんなに好きなのに結ばれないって両想いじゃないでしょう」となる。

少なくとも私はそう思ってしまう。

 

SP2の教官協力者EDは唯一互いが持っているものを失うことがない結末だ。

守護聖と結ばれた場合はコレットのみ家族や友人を失うけれど、教官協力者の場合は手に入るはずだった女王の名誉は失うけれど、これは元から持っていたものではない。

そのため損失感はあまりない。

むしろ「女王の名誉を放棄するほどの恋」と補強してくれる。

新宇宙もゆっくり成長するだけになるから誰にも迷惑をかけない。

ここが初代でリモージュが女王EDを迎えないと、宇宙の危機が救われない前提にあることとも異なっている。

アンジェリーク正編で宇宙の危機がないのはSP2だけだからなんだけど。)

 

ただ、女王コレットが好きな人はエトワでの守護聖×女王コレットCPは萌えるものがあるもの確か。

シチュエーションからすれば逆身分差になるし、コレットの公では呼び捨て、私的では様付け設定とか萌えの宝庫。

女王としてもただひとりの少女としても守りたいとかね。

この辺は女王リモージュCPに通じるものがあると思う。

 

だけど、やっぱりエトワの設定自体が苦しいから、そこでのコレットCPも苦しいものがある。

リモージュの場合、初代以降は「女王リモージュ」の流れで恋愛に関してはかなり個人の考えによって異なるから比較できないけれど、コレットの場合は天レクでの恋愛、トロワでの恋愛とちゃんと公式であるので、その延長を考えると「…」となってしまう。

エトワのアリオスのように「自ら志願してコレットを守っている」&「サクリアの縛りがない」ことがあるから共に未来も築ける横道があったらよかったけれど。

そんな抜け道があったら女王と守護聖制度自体が破綻してしまうから、どちらにしても厳しい設定だと思う。

 

そんなことを考えると、逆にSP2の教官協力者EDはアンジェリーク史上ある意味異端なEDだったと。

天レクのアリオスEDは死別だけど、基本的にみんな悲恋EDだから生死の違いはあれさほど変わらない。

なにも失わず、幸せを築けるED。

それがSP2の教官協力者ED。

完璧なる幸せの前では、それ以上は越えられない壁だと思う。

ああ、なんだか無性にSP2がやりたくなってきた。(←でも、セーブ&ロードが面倒で見送っているけど。)

Happy Birthday Arios

pixivにアリオス誕生日創作UPなり~。

もう、アリオスが生まれた(生まれ変わった)ことよりも、アリオスとコレットが一緒にいるだけで幸せを感じる。

どんなときも、ずっとともに。

もう手を離さないでね。

 

www.pixiv.net

なんとか

誰に強いられたわけでも、誰かが期待しているわけでもないのに、11月22日にはアリオス誕生祝いをしたいと思っています。

ネタが落ちてこないと書けないから、11月はじめくらいに焦って。

まだ推敲していないけれど、ほぼ書き終えることができました。

当日、pixivにUP予定です。

 

アリコレのことを考えていると本当に幸せな気持ちになって。

やっぱりこのCPが大好き!

苦しいときも、悲しいときもたくさんあったのに、幸せになったときを思うともう胸が絞めつけられてしまうほど。

苦難があった分、幸せが加速する。

 

ふと思ったこと。

ふたりがどんなに深く想い合って、通じ合っていても、最終的には死別することが決定している天レクよりも、その後は不確定であったとしても再び邂逅し、ともにいられるトロワの方が幸せを感じるんだなって。

結ばれる、結ばれないに関わらず敵対していないただの男女という関係は、アリオスにもコレットにとっても掛け替えのないものだったはず。

心の赴くままにともに過ごす時間がある。

喩えそれが恋人という肩書がなかったとしても。

互いが生きている。

それだけで幸せを感じるのだから。

死生観

天レクのとき、教官協力者たちはどのようにて死に向き合っていたのか、そんなことをふと考えてみた。

女王絶対主義である守護聖たちが女王救出に赴くのは当たり前だし、それでなくても聖地が略奪されてしまったなら宇宙崩壊の危機でもあるわけで、守護聖でなくても人として女王奪還に加担するのは少しの不思議もない。

まして彼らは多少なりとも聖地に慣れ親しんだ仲。

実力も責任感もある彼らが仲間に加わらない方がおかしい。

 

でも、かなり危機的状況だったのも事実で、危機一髪的な場面に出くわさなくても、心のどこかで死を覚悟することはなかっただろうか。

軍人であるヴィクトールが救命活動の際に命の危険がないとは思わなかっただろうし、それ以上の危険な状況で誰しもが楽観的には考えなかっただろう。

そして、少なからずとも彼らの死生観は変わったと思う。

悪い意味だけでなく、仲間となら乗り切れるという前向きな考えも含めて。

加えて、トロワでも自分たちが死の空間に閉じ込められたのだから、「死」というものに向かい合う気持ちは一般人より強いと考える。

 

そこで、エトワールでの守護聖説得で、彼らがゴネたのがまたしてもわからなくなってしまった。

死生観の変遷は「命あっての物種」と考え生に執着することも考えられるが、六人が揃ってそうなるのが変だと思う。

誰かしらは「自分は一度は死を覚悟した。それなら新天地で自分を必要としている人にこの命を捧げよう」と思っても不思議ではない。

まして自分が関わった聖獣の宇宙。

家族や友人のこともあるが、何一つ持たずに聖地へ召し上げられたゼフェルよりも、ずっとずっと恵まれた状況なのだから。

 

では、なんでそうならなかったかといえば、答えは簡単。

ヒロインが交代したからだ。

もし、過去の出来事によって聖地へ来るきっかけとなるなら、エンジュの説得は不要となる。(もっといえば、エンジュとの恋愛が不要になる。)

なら、ヒロインをコレットで継続したらどうだろうか?

たとえば、身体は動かないから魂だけ教官協力者に語りかけるような感じで。

でも、こうして話を進めてしまうと、傅かれている女王(として機能している)コレットで恋愛が出来ることになり、「ならどうして同じ状態であるリモージュが恋愛できないの?」というジレンマに陥ってしまう。

だから、新ヒロインだったのだろうし。

 

私がリモコレ軸で世界観を考察すると彼方立てれば此方が立たぬ状態になって、今まで以上に矛盾に満ちた世界になってしまうのです。