アリコレ館

アンジェリークのアリオス×コレットばかりかと

特撮におけるエロスと思い出と

大槻ケンヂのエッセイで「ウルトラマンセブンで性に目覚めた」というようなことが書いてあった。

どの本か失念してしまったのでセブンではないかもしれないが、つまりはウルトラマンを見て「エロい!」と思ったということ。

しかも、自分だけでなくて他にも仲間がいた、みたいなことも書いてあったと思う。

 

特撮には様々なシリーズがあるけれど、確かにウルトラマンシリーズが圧倒的にエロい。

恐らく怪獣と1対1で闘うため、ピンチのシーンが嬲られているように感じて、まるでSMプレイ(笑)。

それに付け加えて、磔にされたり、身体が濡れてぬめった描写も意外とあった。これがエロスに拍車をかけていると思う。

残念ながら、私はここに性癖を見つけられなかった質だが、ウルトラマンが苦しむシーンをエロいと思う人の気持ちは理解できる。

 

戦隊ものは基本5対1だからピンチに陥っても痛めつけられた感は薄いし、仮面ライダーウルトラマンと同じく1対1でもやられても嬲られたまでいかないような気がする(仮面ライダーシリーズはほとんど知らないので違うかもしれないけれど、私が見たものについてはそう思った)。

「痛めつけられる」と「嬲られる」間はかなり距離感があって、嬲られてこそのエロスに昇華するんだと思う。

 

でも、実際特撮を見ているのはエロスではなくて(私の性癖は刺激してないので)、今から見ると主人公たちの顔面偏差値の高さに驚いて(笑)。

個人的にはウルトラマン仮面ライダー>戦隊ものの順で偏差値が高い。

よく平成のイケメンライダーとかいうけれど、昭和もなかなかイケメン揃い。

私は物心つく前からウルトラマンタロウが好きだったようで、主演の篠田三郎を見ても「タロウの人」くらいにしか思わなかったのに、今見たらかなりのイケメンで驚いた!

仮面ライダーBLACKの倉田てつをは放送当時友達が好きで話題に合わせるので見ていたけれど、あの時よりも今の方が彼をずっとイケメンだと思っている。背も高いし、脚も長く、小顔。かっこいい。

 

それと、全体的な手作り感が大好き!!!

以前、ふとチェンネルを回した時に平成のウルトラマンが放送していて、戦いのシーンなのにまったく心に響かなかったのを今でも覚えている。

今そんなシーンを見ると、世界観としてはワイヤーアクション+CGの方がウルトラマンなどの特別な世界観は表現しやすいとは思う。

漫画的表現がしやすく、世界観にも合っているから。

けれど、やっぱりラジコンとしか思えない戦闘機とか、ジオラマのような街並み、背中のチャックがわかるウルトラマンが恋しい。

アクションもトランポリンを利用しての三回転ひねりとか、サンバルカンの太陽を背にして回転するポージングとか、ダイナマンの決めポーズ背景の爆発とか、ひとつひとつが丁寧で、彼らの象徴的な動作が好き。

 

シナリオについては子供の頃の記憶が残っているのがダイナマン

サンバルカンも何故か前のシリーズの悪役であるヘイドリアン女王が復活したり(同じ戦隊ものとはいえ別物だと思っていたから驚いた!!)、ジェットマンも最後にレッドとピンクが結婚したくらいのその場の記憶はあるけれど、全体的な流れでいえばダイナマンしか覚えていない。

はっきりいってしまえば敵である「メギド王子の物語」であって、ダイナマンは主役であっても主軸はメギドを中心としてなっている。

甘ちゃんな坊ちゃんであったメギドがダイナマンと初対面で命と同等に大切にしている尻尾を切り落とされてしまうことから話がはじまる。

敵のジャシンカ帝国・有尾人一族は尻尾の数によりヒエラルキーがあり、父帝である9本のアトン、7本のカー将軍に次ぐ地位だったメギドは5本から4本に降格になり、これによって内部の地位も低下してしまう。

その後に出現する従妹のキメラ王女も4本なので、ライバル感もバリバリ出てくる。

中盤に出てくる女将軍7本尻尾のゼノギアによって内部バランスが更に変化。

ゼノギアは野心家でメギドを嵌めて失脚させ、その尻尾を切り落として幽閉させてしまう。

ゼノギアはその直後に現れたダークナイトとタックを組み、カー将軍まで失脚させるように企み、結果はカー将軍の殉死。

実はダークナイトの正体がメギド。彼は復讐のために幽閉されていた洞窟を脱出し、自分を嵌めたゼノギアに復讐し、父帝アトンと直接闘いその地位を譲りうける。

最終的にはダイナマンとの対決で負けてしまうのだが、彼はそれを受け入れただろう。

尻尾の数が絶対だった有尾人一族でも、辛苦を舐めてきた彼は「尻尾の数じゃない。実力なんだ!」と悟ったからだ。

面白いなと思ったのが、彼がキメラを妻に選んだこと。

互いにライバル視してはいたが、通常であれば彼らは結婚していただろう。メギドにはキメラ以上の、キメラにはメギド以上の人物がいたとは思えないから。

でも、色々あってメギドがキメラを選んだのは感慨深い。

そして、ダイナマンとの最終決戦で討死覚悟のメギドはキメラを逃がそうとするけれど、キメラ自身がそれを拒否して、ふたりとも死んでしまう。

ダイナマンは確かに正義のヒーローだけど、話の主軸はメギドが失脚して復活する過程だと思う。

メギドが失脚するまでは今までの戦隊ものとそう変わらない。戦って敵側がジリ貧となって最終決戦で悪が滅ぶ、みたいな。

でも、ダークナイトとして復活したメギドのかっこよさ。

以前なら新キャラはあくまで新キャラの投入であった。

だが、ダイナマンは違う。その正体をメギドにした。所詮はお坊ちゃんだった彼が一皮も二皮もむけて帰って来た。

今の戦隊ものの方が話が込み入ったものになっていると思うけれど、子供心に見たこの話が忘れられない。

 

キャラクターでいえば、宇宙刑事ギャバンがかっこよかった。

普通のイケメンではなく、コミカルな描写も多かったので2.5枚目なんだけど、いかにも漢気があって「男が男に惚れる」タイプのキャラクターだった。

演じていた大葉健二が自分色に染めたという感じ(笑)。

余談だが、キルビル千葉真一と一緒に出演していると知って手持ちのDVDで見たら、千葉真一の隣にいたコミカルなお弟子さん役だったのね。顔をよく見てなかったから気づかなかったけど、顔見て一発でわかったわ。

NOと唱える

思い立ってアンジェリークspecial2をプレイ中。

PS2本体がそろそろ稼働限界なのか、途中のアニメーションでストップしてしまったため、現在まだまだ序盤。

でも、やっていて楽しい。

トロワのデートメインとは違って、はっきりしたライバルの存在は大きい。

ちゃんとレイチェルに手抜きをお願いしていたはずなのに、怒涛の育成で何故かフィフティフィフティになって焦った(笑)。

ゲームとして一番SP2が好きという人の気持ちはわかる。

 

さて、十数年振りにプレイして思ったのは、自分が母親になってその視点でキャラクターを見てしまうことだった。

ゲームを見ていた子供が「どうしてゼフェルは怒っているの?」と訊いてきた。

確かに執務室に入るなり不機嫌な顔をして怒鳴られたら、普通はそう思うだろう。

キャラに慣れてしまった今では「ゼフェルはそういうキャラクター」として認識しているけれど、よくよく考えてみるとそこに至る過程は考えさせられるものがある。

ゼフェルはルトゥールで若干変節があったとはいえ、彼自身の人生は他守護聖の中で一番恵まれていない。

前任者の突然の失踪が原因で、本来あるべき猶予期間がなかった。

まだ未成年のゼフェルが、それも親にも友人にも愛されていた彼が、突然すべてを失ってしまう過去はあまりにもひどい。

だからこそ、ゼフェルは頑として「反聖地」であり守護聖制度のアンチテーゼを訴えている。

ランディとの確執(というか仲の悪さ)は、同じ世代でありながら聖地をすべて肯定的に受け入れている”甘い坊ちゃん”のランディに対する蟠りも大きいだろう。

(ゼフェルが思うほどランディは坊ちゃんでもなく、貴族の恩恵も受けていないのだが。けれど、そのランディの過去を知らないというのも、ここから彼らの間遠さを窺い知ることができる。)

ゼフェルが頑なに聖地に対してNOを唱えるほどに、いかに彼の過去が愛しいと思っいることの証左になるだろう。

 

そして、実際の女王と守護聖の制度を真正面からNOといったのは、実はアリオス。

ゼフェルもコレットが自分たちの手足として動くことになんら疑問は感じていない。

女王と守護聖の世界という絶対の存在については、疑ってはいない。

けれど、アリオスはトロワで「あいつらお前を扱き使いやがって」と唯一神鳥の制度を批判している。

他キャラクターは女王称賛する言葉以外疑問すらない。

これはアリオスがコレットを慮ってという以前に、女王制度ないしは皇帝制度という一極集中制度について疑問視しているからかもしれない。

教官協力者との恋

ある方が「天レクはとても感動したけれど、やはり教官(協力者)×コレットのCPは自分の中でSP2で終わっていた」と書いてあって、それがトロワ前の発言だったんだけど、個人的には納得。

すべてはエトワまでつながっていて、彼らとコレットの絆が切れることはないから、決してどのタイミングで切れてしまうというものではないけれど、SP2以上のものってないように思う。

まだお互いの気持ちが固まらずに、男は女王という名誉に遠慮して、コレットは恋にあと一歩踏み出せずにいて。

それで迎えた女王ED。

それから天レクで、トロワで、エトワで…って、特にエトワで結ばれるとなると、何回も別離して、また確実に別れるのがわかっているのに結ばれるの?ってことになる。

天レクは絶対別離EDだからここは覆せないし、せいぜいトロワで結ばれないと「そんなに好きなのに結ばれないって両想いじゃないでしょう」となる。

少なくとも私はそう思ってしまう。

 

SP2の教官協力者EDは唯一互いが持っているものを失うことがない結末だ。

守護聖と結ばれた場合はコレットのみ家族や友人を失うけれど、教官協力者の場合は手に入るはずだった女王の名誉は失うけれど、これは元から持っていたものではない。

そのため損失感はあまりない。

むしろ「女王の名誉を放棄するほどの恋」と補強してくれる。

新宇宙もゆっくり成長するだけになるから誰にも迷惑をかけない。

ここが初代でリモージュが女王EDを迎えないと、宇宙の危機が救われない前提にあることとも異なっている。

アンジェリーク正編で宇宙の危機がないのはSP2だけだからなんだけど。)

 

ただ、女王コレットが好きな人はエトワでの守護聖×女王コレットCPは萌えるものがあるもの確か。

シチュエーションからすれば逆身分差になるし、コレットの公では呼び捨て、私的では様付け設定とか萌えの宝庫。

女王としてもただひとりの少女としても守りたいとかね。

この辺は女王リモージュCPに通じるものがあると思う。

 

だけど、やっぱりエトワの設定自体が苦しいから、そこでのコレットCPも苦しいものがある。

リモージュの場合、初代以降は「女王リモージュ」の流れで恋愛に関してはかなり個人の考えによって異なるから比較できないけれど、コレットの場合は天レクでの恋愛、トロワでの恋愛とちゃんと公式であるので、その延長を考えると「…」となってしまう。

エトワのアリオスのように「自ら志願してコレットを守っている」&「サクリアの縛りがない」ことがあるから共に未来も築ける横道があったらよかったけれど。

そんな抜け道があったら女王と守護聖制度自体が破綻してしまうから、どちらにしても厳しい設定だと思う。

 

そんなことを考えると、逆にSP2の教官協力者EDはアンジェリーク史上ある意味異端なEDだったと。

天レクのアリオスEDは死別だけど、基本的にみんな悲恋EDだから生死の違いはあれさほど変わらない。

なにも失わず、幸せを築けるED。

それがSP2の教官協力者ED。

完璧なる幸せの前では、それ以上は越えられない壁だと思う。

ああ、なんだか無性にSP2がやりたくなってきた。(←でも、セーブ&ロードが面倒で見送っているけど。)

Happy Birthday Arios

pixivにアリオス誕生日創作UPなり~。

もう、アリオスが生まれた(生まれ変わった)ことよりも、アリオスとコレットが一緒にいるだけで幸せを感じる。

どんなときも、ずっとともに。

もう手を離さないでね。

 

www.pixiv.net

なんとか

誰に強いられたわけでも、誰かが期待しているわけでもないのに、11月22日にはアリオス誕生祝いをしたいと思っています。

ネタが落ちてこないと書けないから、11月はじめくらいに焦って。

まだ推敲していないけれど、ほぼ書き終えることができました。

当日、pixivにUP予定です。

 

アリコレのことを考えていると本当に幸せな気持ちになって。

やっぱりこのCPが大好き!

苦しいときも、悲しいときもたくさんあったのに、幸せになったときを思うともう胸が絞めつけられてしまうほど。

苦難があった分、幸せが加速する。

 

ふと思ったこと。

ふたりがどんなに深く想い合って、通じ合っていても、最終的には死別することが決定している天レクよりも、その後は不確定であったとしても再び邂逅し、ともにいられるトロワの方が幸せを感じるんだなって。

結ばれる、結ばれないに関わらず敵対していないただの男女という関係は、アリオスにもコレットにとっても掛け替えのないものだったはず。

心の赴くままにともに過ごす時間がある。

喩えそれが恋人という肩書がなかったとしても。

互いが生きている。

それだけで幸せを感じるのだから。

死生観

天レクのとき、教官協力者たちはどのようにて死に向き合っていたのか、そんなことをふと考えてみた。

女王絶対主義である守護聖たちが女王救出に赴くのは当たり前だし、それでなくても聖地が略奪されてしまったなら宇宙崩壊の危機でもあるわけで、守護聖でなくても人として女王奪還に加担するのは少しの不思議もない。

まして彼らは多少なりとも聖地に慣れ親しんだ仲。

実力も責任感もある彼らが仲間に加わらない方がおかしい。

 

でも、かなり危機的状況だったのも事実で、危機一髪的な場面に出くわさなくても、心のどこかで死を覚悟することはなかっただろうか。

軍人であるヴィクトールが救命活動の際に命の危険がないとは思わなかっただろうし、それ以上の危険な状況で誰しもが楽観的には考えなかっただろう。

そして、少なからずとも彼らの死生観は変わったと思う。

悪い意味だけでなく、仲間となら乗り切れるという前向きな考えも含めて。

加えて、トロワでも自分たちが死の空間に閉じ込められたのだから、「死」というものに向かい合う気持ちは一般人より強いと考える。

 

そこで、エトワールでの守護聖説得で、彼らがゴネたのがまたしてもわからなくなってしまった。

死生観の変遷は「命あっての物種」と考え生に執着することも考えられるが、六人が揃ってそうなるのが変だと思う。

誰かしらは「自分は一度は死を覚悟した。それなら新天地で自分を必要としている人にこの命を捧げよう」と思っても不思議ではない。

まして自分が関わった聖獣の宇宙。

家族や友人のこともあるが、何一つ持たずに聖地へ召し上げられたゼフェルよりも、ずっとずっと恵まれた状況なのだから。

 

では、なんでそうならなかったかといえば、答えは簡単。

ヒロインが交代したからだ。

もし、過去の出来事によって聖地へ来るきっかけとなるなら、エンジュの説得は不要となる。(もっといえば、エンジュとの恋愛が不要になる。)

なら、ヒロインをコレットで継続したらどうだろうか?

たとえば、身体は動かないから魂だけ教官協力者に語りかけるような感じで。

でも、こうして話を進めてしまうと、傅かれている女王(として機能している)コレットで恋愛が出来ることになり、「ならどうして同じ状態であるリモージュが恋愛できないの?」というジレンマに陥ってしまう。

だから、新ヒロインだったのだろうし。

 

私がリモコレ軸で世界観を考察すると彼方立てれば此方が立たぬ状態になって、今まで以上に矛盾に満ちた世界になってしまうのです。

失敗の連鎖

エトワールでの設定変更の中でやってはいけなかったのは「女王のサクリアの概念の消失」と「神鳥と聖獣のサクリアの意味の違い」だと思っている。

 

前者については、聖天使(エトワール)の格上げを目的として、女王の万能感をなくすためだと思っている。

何度も書いているけれどエトワ未プレイだから違うかもしれないが、それまでチート機能といわれてきたリモージュでさえも、エトワではあまり万能な女王なイメージがない。

ましてコレットにあるわけもない。

エトワでは絶対的な女王の存在感が揺らいでいるのが印象的。

 

後者については、世界を構築する九つの要素の意味付けが違ってきたら、そこから生まれた宇宙は他と異なるはず。

モノは一緒でも意味付けが違う場合はあるだろうが、神鳥と聖獣のサクリアの意味は大きくは違わない。

むしろ無理に変える必要のないものだ。

では何故変更したのか。

それは「キャラクターに合わせた」としか思えない。

キャラクター性は合致しても(個人的には合っていると思えるキャラはあまりいないが)、世界を構築する要素の意味を変えるほどのことかな?と思う。

 

アンジェリークは初代がSFCということもあり、今から考えたら容量が少なく、その世界観はゲームよりもCDなどの派生で生まれたものだ。

無論、根幹となるものはゲームから生み出されているけれど、人間関係などはドラマCDの方が詳しく描写されている。

だから、今から聞くと当初はキャラ設定がまだ固まっていなかったんだと思わせるような場面もあるし、それはそれで歴史を感じる。

しかし、エトワールに至っては、もうそれなりに出来上がったものに対して矛先を変えたものだから、かなりの無理が生じている。

トロワまででアンジェリークの世界はある程度熟成されて、更に未来を描くには正直現キャラクター温存は無理だったのではないかと思う。

そう思わされるのは、エトワでの新設定がなにも生かされない、場当たり的なものに感じるから。

例えば、カティスは後付けキャラだけど、彼の設定はその後の矛盾を生んでいない。

むしろジュリアス、クラヴィス、ルヴァのよき相談相手であり緩衝材的なキャラとして描かれるため、彼が聖地を去った後のジュリアスとクラヴィスの険悪感を物語るようにもなっている。

エトワにはそういう未来に繋がる、または過去に戻って納得できるようなことを、私自身は感じられないのだ。

 

で、その失敗の連鎖がルトゥールにおける新キャラクターの登場だと思っている。

最初に断っておくと、新キャラが駄目というわけではない。

そこそこ人気があるのを見ると、むしろキャラクター造形には成功しているのだと思う。

けれど、そこに新キャラがいても後にも先にも繋がらない。

双子の執事はいなくても話は通じる。

ブライアンについては過去の出来事を語るためのキャラクターなんだけど、その過去は特別必要には思わない。

ブライアンが噛んでいるという部分を除けば、それは今まで通りであり、それで特に問題はない。

 

ルトゥールの新キャラは完全に作り手とユーザーの齟齬の違いだと思っている。

作り手は「新規ユーザーのためのキャラ」であり、ユーザーは「アンジェリークシリーズの存続」のだと思う。

だから、ユーザーにとって新キャラという概念は特別ほしいものではなかったはず。

そして、作り手の誤算は新規ユーザーが予想を下回ったことだろう。

あくまでも私の印象だけどルトゥールプレイ済みなのは新規<古参ユーザー。

せっかく新規取り込みのためにキャラデザも変えて新キャラを追加しても、マーケティングを誤ったとしか思えない。

勿論、どのジャンルも新規取り込みは重要課題だから、作り手としての姿勢は間違っていない。

だが、見誤ったのも事実だと思っている。